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町田の高校体罰問題とスポーツの現場ではどうなんかって話を自分の体験を踏まえて。

町田の高校で教師が生徒に喰らわした問題。(喰らわすは業界用語で殴る)
格闘技選手の中でも容認派と否定派で分かれていて、興味深く見守っていました。人にはいろんな意見や立ち位置があるので、正解を見つける作業をする気は無く、いろんな意見があっていいというスタンスで見守っていました。バカだなあと半分は冷笑的にはなっていましたが。

僕の考えは上記のおおたとしまささんの記事にほぼほぼ同意です。
何があっても法を犯してはダメだと思っています。学校だから治外法権とはならないように思います。これが容認されてしまったら、生徒は抑圧される状態が生まれるし、パワハラやセクハラの問題を生んだ構図と同じものが生まれるのだと思います。

相撲や柔道やその他のスポーツで起こった不祥事と同じように、今までだったら内部のルールで裁かれたものが現在は社会のルールを当てはめられるってことです。これに関しては全てに賛成しているわけではないし、コンプライアンス上問題ないのであれば、文化を残す意味で大切にして欲しい部分もあるのは事実だ。

徒弟制に労働基準法を当てはめたら、成り立たなくなるだろうし、それで育たなくなるのも、その産業が成り立たなくなるのはあまりにも不幸だとは思っています。

スポーツの現場における体罰はどうか。
これに関しても原則は「なし」だと思います。ただ高度に構築された信頼関係と極度な情熱がある場合には例外もあるのだけども、例外は長く続くはずもなく、トラブルになるケースもあります。これはいい時はいいのだけどもダメになったら、そこで責められてる。男女関係に近いのかもしれないです。

成功したアスリートは体罰が残っていた時代背景のある世代だけに、体罰を肯定してしまう場合もあります。僕はこれが問題だと思っています。そこには生存者バイアスがかかっていて、その意見に真実があるかは疑ってしまうのが本音です。

そもそも成功したとされる人の意見は暴力的だなと思う部分が多々あります。夢は叶うとか、努力は必ず報われるとかね。夢は叶わないことの方が多いし、努力は報われるとは限られないです。努力が報われるというと報われない人は努力をしていないことになるわけです。頑張っても勝てない人はいるし、全員が勝てるものなわけがないです。だってチャンピオンは1人しかいないんだから、小学生だって冷静になればわかるはず。

努力をすることは勝つための最低限のことで、皆が努力はしています。勝てたのならば幸運だし、努力する意味は努力しても報われないことがあると知ることではないのかとさえ思っています。それだけで努力する価値はあると思っています。

ちなみに僕は努力した記憶がなく、好きにやっているだけで、自分は幸運だったと思っています。運が実力だと思います。運を引き寄せるために善行をしよう。(割と本気)

ここからは僕が中学校くらいに指導者について感じたことを書いていきます。変わっていた子供だとは思いますが、今思っても間違ってはいないように思います。

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