恐らく私は“ヲタク”に向いていない



そう思い始めたのは最近ではなく
何年も前だったような気がする
何年前であれ、年月が経てば経つほど
そう思えて仕方ないのだから
さほど間違いではないのだと思う

ここ数年で「ヲタク」という概念は一般化して
誰もが「推し」という存在を作り出していて
色んな企業、マスメディアが
「推し活」なんてワードを使っては商売をしている
私としては、所謂「ヲタクキモい」といったような
侮辱的な言動は幼少期から見聞きしたことがないが
正直ここまで「ヲタク」というものが一般化されている今、それを言う人間は絶滅危惧種に等しいのではないだろうか
というか多分、ヲタクそのものというよりは
ゾーニングが出来ていないなど
昔から明確な理由があったのではないかとも思うけれど

学生時代、世代的にはなかなか珍しい話らしいが
嵐ファンが1人もおらず
嵐ファン=私、となっていたといっても過言ではなかった
有難いことに上記のような言葉をかけられるようなこともなく、寧ろ肯定的に、曲を聴いたとか番組を見たとか言ってくれる子が多数いた
その頃は丁度携帯電話がガラケーからスマホメインになってきたあたりで
メールとLINEの併用、ブログかTwitterのどちらか、という感じで
今ほど世界中のヲタクと交流することもなく、せいぜい学校の中だけで完結していた

今、私が学生で嵐が活動していたとしたら
私は「ヲタク」もとい「ファン」でいられるのか
正直断言は出来ない 気持ち的には出来るけど
時間と金を年齢相応とは言い難いほど惜しみなく使っている今の子達を見ていると
恐ろしくて仕方が無いし、私は許されない気がしてしまう

どこの界隈でも、ヲタクというものは、狂っていればいるほど“良い”ようで
そのコンテンツを好きではない人(ヲタク的にいうと一般人)がドン引きするような時間と金のかけ方をすることこそが、強く正しく愛情深さを測るものなのだと
特にSNSが発達しまくっているここ数年で、異様なほど感じる
他人と比べるものじゃないとか
自分は自分であるとか
SNSを見なければいいとかそういうことではない

何よりタレント側が
「買ってくれると嬉しい」スタンスではなく
「1枚でも多く買えよ」スタンスになってきている
有難いことに嵐はずっと買ってくれて有難うスタンスを崩さなかったので
甘えきってそれぞれ一形態ずつ買うことしかしなかったけど
100枚買ってください、ミリオンいかせてください
そんなことを普通に言う
申し訳ないがとんでもなく怖い
(行ったことは無いが)ホストのナンバー制度のようで
私がそういうタレント達を好いていたとしたら
罪悪感で目を合わせられないかもしれない
いや寧ろタレントより大量に買っているヲタクから放たれる無銭ヲタク罵倒に対しての罪悪感のほうが大きいかもしれない
それくらい金を使うことというのは「ヲタク」もしくは「ファン」を自称するには必要なもので
好きだから買おうかな、では済まなくなっている
だって、他の同担は、あんなに買ってる

そんな罪悪感と恐怖心
持ち合わせている好意や崇拝は
私をつき動かす理由には全然ならなくて
ほんの僅かな額をちびちびと使っているだけだし
幾つも自動録画されているワイドショーの
ほんの数分を見るのが億劫だなあと思ったりする
そもそも、推しというものがいながら
色んなタレントに興味を抱いてしまうあたり
一途とは程遠く、ヲタクどころかミーハー気質なのだろうが

昨今の推し文化は、手軽に手に入れられるアイディンティティと化している
「ヲタク」というものは、深掘りすれば勿論色々複雑な部分はあるものの
ほんの少しの興味と、あとは時間と金を割くだけで
出来上がってしまう個性なので
上には上がいるこの世で
自分自身の強みや個性を見つけたり磨き続けるより
余程楽なのだと思う

SNSがなくなったら世のヲタクはどうなるのか
好奇心半分 恐怖心半分で見てみたい気もする

#Nowplaying


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