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おまけの日に

閏日だ。英語ではleap dayというらしい。
閏という漢字は「余り」という意味があるらしいが、leapは飛び越えるの意味だからイメージがまたちょっと違う。

そんなことはさておき。

燃え殻さんのエッセイの朗読を聴いた。
最初に朗読を聴いてから、次に文章を読む。目で文章を追っていると頭の中で燃え殻さんの声で再生され、その情景が浮かぶ。

誰かを半年間も支え続けるなんて、自分にはできるだろうか。


どちらかといえば、人に話をするよりは聞くほうが多いと思っている。だから時に、誰かに話を聞いてもらいたいと思うことがある。それでも、実際はあまりそうせずに今過ごせているのは、人に聞いてもらう以外に自分がどこかで癒やされているからなのかもしれない。

半生を振り返れば、しんどくなかった時期が全くなかったわけではない。思春期の友人関係、二十代の恋愛、仕事を通して気づいた自分自身、大人になってからの苦しい人間関係、等々、幾つかの曲がり角があった。しかしどれも、渦中はもうダメだと絶望していても今思えば一過性の苦しさだった。五十年以上生きてきた今だからそう思えるのだと思う。長く生きるのも悪くないとはこういうことなのだな。



そしてそれぞれの曲がり角で、確かに自分を救う言葉を投げかけてくれた人はいた。特に若い頃はそうだった。大人になってからは、面識はなくとも、本や映画やネットなどから、言葉だけでなく音楽や絵や写真や色々な形で発信している人たちに、多分癒やされてきたんだと思う。

直接的でなくても、今の時代、人と人は容易に接することができる。言葉は交わさなくても、時空を超えて影響を与え受けることができる。そう考えると、自分が沢山のプラスの影響をさまざまな方面から受けてきたように、自分も書くことで、何かが誰かに届くかもしれない。




今、自分には心を離せない人がいる。本人は助けを求めていないが、周囲が心配するほどの試練の最中にいる。今は様子を伝え聞くだけでなにもしていないのだけれど、その人が折れてしまった時に、自分がどう動くか、何ができるのか。燃え殻さんの、エッセイの後のモノローグに、その答えを見つけた気がした。




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