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ベンチに置いた手の甲を、深く染まった紅葉が撫でた。
隣に座るあずさはその紅葉を指先で遊び、そっと摘んで僕を見た。
「今年の紅葉は少し遅れるそうだよ」
彼女の俯き加減の前髪を静かに風が流し、紅葉を持っていない手で髪を直した。
「じゃあこんな景色が実際に見られるのはまだ先なんだね」
僕たちは紅葉の名所で、最も美しいと言われた年に来ていた。近年の仮想現実技術の進歩は目覚ましく、好きな年の好きな情景の中に多人数同時に入り込み、五感を刺激されつつある程度の情景への干渉も可能としていた。お互いの姿はアバターと呼ばれているが、全身を数分間スキャンするだけで現実と殆んど同じ姿を映し出す事ができた。
結果として多くの人間は仮想現実に割く時間を急増させ、社会的な変革を引き起こす事態となった。
「ここに来るのは何回目だろう。私たち、本当に飽きないね。…おっと、本当は飽きてたりする?」
まさか、と返すと彼女はそっか、と空を見上げて微笑んだ。
「この景色はすごいよ。こんなに淀みなく、澄み切っていて、生き生きしてる。君の表情も、よく分かる」とあずさは正面から僕を見た。
「君の技術のお陰だろう。僕はただ美しいものを美しく視られるようにしたかっただけだよ」
僕は仮想現実技術の視覚部門に携わっていた。あずさは総合的な技術開発に携わっており、はっきり言って僕には彼女が何をどうやってこんなとんでもない技術を確立させたのか、1%も理解出来ていなかった。

「そしてそれは僕自身の為に必要な技術だったんだ。」君の細やかな表情も逃さずきちんと捉えられるように。
「私も、そうかも知れない。こんなにも美しい世界を体験出来ないまま死にたくなかったもの。ねぇ、次はいつ会えるの?」
その時風が吹き、紅葉を散らして彼女の髪をかきあげた。あずさは眼を細め、風が止むのを待った。僕は、静かに彼女を抱き寄せた。
背中に回した両腕に、触れ合った頬に胸に、彼女の体温を感じた。
鼻をくすぐる彼女の髪からいつものシャンプーの香りがした。
服が擦れ合う音が、彼女の小さな吐息が耳に届いた。
彼女が僕の背中を少し強く抱くのを感じた。
僕は眼を閉じた。

暫くして彼女が口を開いた。
「髪、1ヶ月位前から伸びてないよね。アバターの更新してないんでしょ」
流石に気付かれていた。
「今までさ、そんな事なかったよね。一番新しい姿が見たいって、君が言ったんだよね?こっちで会う時はスキャンしてからって。それなのになんで。1ヶ月も、前の姿なの?」あずさは言いながら少し震えていた。恐らく彼女は泣いているのだろう。
この技術の素晴らしい点は、実際の肉体が動かなくとも、脳からの電気信号を受けて仮想現実上の肉体を動かせる所だった。医療や福祉の面でこの技術は大変前向きなデータを重ねている。きっとこれからもそのデータは蓄積され、研究が進み、更にこの技術は進化していくだろう。僕はその一端を担えたということが、誇らしかった。
人生で、一番誇らしかった。

「最近、忙しくて髭を剃ってなくてね。ボサボサに伸びてる姿を君に見られたくなくて」

「嘘つき」
ぱっと身体を放して、彼女は困ったように笑いながら涙を拭った。
熱を持った彼女の鼻と耳が、熟れた紅葉のように紅く染まっていた。

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