見出し画像

コインランドリー

『あなた、大変。故障よ』

サチコが僕を呼んでいる。滅多にないことなので僕は雷に撃たれたように、慌ててサチコの元へと駆け付けた。
洗濯機のサチコは両手を泡だらけにして僕のお気に入りのシャツの前で呆然と座り込んでいた。
『ねぇ、あなた、大変なの。私故障しちゃったみたい。嫌になっちゃうわ』
「どうにかならないかい?そのシャツは明日のとても大切な会議に着て行くつもりだったんだよ」
『無理よ。洗うことに関しては、指一本動かせないもの。私1人じゃどうにもならないわ』
サチコは泡だらけの手で顔を覆って、声を上げて泣き始めた。やれやれ。泣く暇があったらシャツを1枚でも多く洗って欲しいものだ。
こうして僕は初めてコインランドリーに行くことになった。

電子端末で近くのコインランドリーを検索すると、車で数分の場所に存在することが分かった。
「こんなに身近にコインランドリーがあるものなのだな」
思わず僕が呟くと、それを聞いたサチコが一層激しく泣き始めた。さっさと家を出た方が良さそうだ。

スーツに着替え、お気に入りのシャツを黒革のビジネスバッグに詰めて車に放り込んだ。念の為内ポケットに名刺入れが入っているかも確認しておく。準備は抜かりなくする。僕の性分なのだ。
コインランドリーの駐車場はほぼ満車に近かった。僕は運良く白いBMWと入れ替わりで車を停められた。
車を降りると、入り口の自動ドアに立っているボーイを見つけた。声を掛けると『当店は朝6時から夜11時まで営業しております』と爽やかな笑顔で答える。僕も営業で鍛えた自然な作り笑顔で応える。
店内には8台の洗濯機と、15台の乾燥機が壁に沿って並んでいた。殆んどが稼働中であったが、1番端の洗濯機が手持ち無沙汰に小説を読んでいた。僕が近付くと気配に気付き、顔を上げた。大きめの黒縁のメガネに負けない、大きな瞳を持ち、鼻も高い。表情こそ薄いものの、中々整った顔立ちをしている。長い前髪に不潔な印象はなく、寧ろ清潔感を感じるタイプの顔である。
「君、名前は?」
『コウジです』
「僕のシャツを頼めるかい?」
『もちろん』
僕はコウジにシャツを託すことにした。
コウジは細い腕でありながら力強く、しかし繊細にシャツを洗い進めた。僕が暇を持て余さないよう、使用している洗剤の特徴や洗い方のコツなども教えてくれた。
「さっきは何の小説を読んでいたんだい?」
『カラマーゾフの兄弟』
「小説はよく読むのかい?」
『空き時間は大抵読んでいます』
「もしかして、書くのかな」
『ええ、少しですが』
ばつが悪そうに答えると、洗い終えたシャツを僕の前に差し出した。
『僕も乾かすことは出来ますが、ここの乾燥機たちは優秀なのでそちらをお勧めします』
僕はコウジに従った。乾燥機にかけたシャツは皺がなく、肌触りも良かった。何よりコウジの使った洗剤の柔らかい香りがふんわりと漂って来た。
僕はすっかりこのコインランドリーを気に入ってしまった。
これからもサチコが故障した時に利用することにしよう。
機嫌を良くした僕は、サチコにケーキを買って帰る事にした。彼女の好きなベイクドチーズケーキだ。これで少しは機嫌を直してくれると良いのだが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?