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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと24

作家の尾崎一雄さんが書いた父と父の家族を題材にした作品だけで一冊にした本があればいいな、と私は密かに思っていました。ある日、父の書棚から尾崎さんの出版目録なる立派な和綴じ本を発見し、ページをめくっていたところ、なんとあったのです。尾崎家と父の家族が出会った上野櫻木町の路地の人々を描いた『ぼうふら横丁』、東京大空襲で全滅した深川の山下家のことと父の行方を捜した作品『山下一家』、そして、父と再会した時のことを綴った『運といふ言葉』。池田書店版『ぼうふら横丁』には、その三作が収められています。父に尋ねたところ、人に回覧しているうちに何処かへ行ってしまったとのことですが、ネットで見つけ、取り寄せました。奥付には昭和二十八年(一九五三)四月二十日初版発行とあります。『ぼうふら横丁』を書き終えたのが同じ年の三月で、それに合わせた出版ということがわかりますが、ここに、昭和二十年に書いた『山下一家』と、昭和二十七年九月に書いた『運といふ言葉』を併録したのは、関連作品ということと同時に、父を励ます思いも込められていたのだと感じます。

高校を卒業した父が尾崎さんと再会するきっかけは、父が尾崎さん宛に書いた、一通の手紙がきっかけでした。その内容は、『運といふ言葉』に掲載されています。

拝啓、突然のお便りにてさぞ驚かれることでせう、小父さんを初め皆様相變らず元氣で居られることでせう、しかし小父さんの身體が損なはれて居る事を小父さんの小説で時々見るので心配です。

そんな書き出しで始まる父の手紙は、十八歳の父が袋物製造卸に住み込みで雇われ、少し落ち着いてから書いたもので、尾崎さんの元には六月二十三日に届いています。思いがけない父からの手紙に尾崎さんと松枝さんは心浮き立たせて封を切ります。尾崎さんは作品中に父からの手紙を長々と引用しています。

私は今元氣で居りますから御安心ください、思へば深川の空襲で一家全滅した當時、小父さんを始め鮎雄ちゃん一枝さんの私への激励の手紙を頂き以来プッツリと音信を絶ちました、疎開先の小母さんの態度が手の裏を返したやうに變り泣く泣く伯父に連れられて伯父の家へ行つたのがその年の六月でした、折からの田植麦の穫り入れにかりたてられ都會に育つた私は慣れぬことばかりで手足は傷だらけになり、女々しいことですが父母の像も一向に頭から消えず、思ひ出しては泣いて居りました、さうした時はあの樂しかつた櫻木町を思ひ出して、それから一度でもいいから上野へ行かうとしましたが以来今年の春(二月)になるまで七年間一度も行く事が出来ませんでした。

父にとって、上野櫻木町での日々は、幼き日のゴールデンデイズだったことが、この一文から分かります。父は、上野櫻木町もまた、空襲で焼けたものと思っていたようです。

夢に見た櫻木町は焼けて一掃され新興した活氣のある町でした、しかし實際は古傷をゑぐられるやうな古ぼけた昔のまゝの町であることを知ることは出来ませんでした、

父はさらに、高校から就職までのことを簡略に伝えます。

昭和二十一年に伊豆のN高校(當時は舊制中学)に入りました、(中略)今春その學校を卒業しました、大學へはやつて貰へないので冷かしに公務員の試験を受けたら好成績で合格し困つたので家に内緒にして何とかして東京へ出ようとして市川に居るNの伯父を頼つて行きました、しかし親爺の居たK建設へは入る事が出来ず止むなく考へたこともない商人に志し今居る小岩の高橋商店にNの伯父の世話で小僧に入つたのです、店は思つたよりひらけて居り毎日暢気に過して居ります。

父は名古屋の税関を受けたといいます。アルバイト先からも卒業したらうちにいらっしゃいと誘われていたそうですが、どうしても東京に戻りたかったのです。けれど、あてにしてた鹿島建設は、大学を卒業していない父を相手にはしてくれませんでした(後からわかったことは、どうやら父を探していたとのこと。けれど、父のことを知る人と人事採用担当がうまく連携していなかったようです)。

上野へは二度行き、うなぎ屋の大貫さんへ行つて、鮎雄ちやんが一度来たことも判り、又お宅の住所を訊きましたところ判らず終りました、しかしこの間新聞に足柄下郡下會我と載つて居りましたので、ことによるとと思つてこれを書いたのです、

ある日、新聞を読んでいたら、「下曽我の病院が火事に遭った記事が乗っていて、その住所を書いて、小父さんの名前を書けば届くかな、と思ったんだよ」と父は回想します。父が尾崎さんに手紙を書こうと思ったのは、父と父の家族のことを書いた『家常茶飯』という作品を市川の伯母から教えられたことがきっかけでした。「伯母さんに、尾崎さんがまアちゃんを探してる、って言われたんだよ」

小父さんと別れてもう十年にならうとして居りますが、大體の消息は小父さんの書くもので知つて居ます。一枝さんは早稲田の文科に居るさうですね、東京へ行けば逢へると思つたら家は在つても住む人は見ず知らずの人達です。二度目に上野へ行つた時は、忍ヶ岡小学校へ行きました。そしていつも歸つた道を歸つて来て長屋の隅の家へ「ただ今」と云つて入りさうになりました、そして小父さんや小母さんや鮎雄ちやん一枝さん圭子ちやんの居たお向ひの家へ飛び込みたくなりました。

久しぶりの上野櫻木町、懐かしい小学校、長屋。どれだけの記憶が父の脳裏に蘇ったことか。父はきっと素直な気持ちを書き綴ったことと思いますが、こうして作品内に掲載されたのは、文面に宿る切なさに、心響くものがあったからだと感じます。

久しぶりに行つた上野の家はリップ・バン・ウィンクルが夢からさめたのと同じでした、しかし居ていい筈の私の身内は一人も居ません、私はいつからか威勢を張る表面は明るい人間となりました、そして上野へ行くのが厭になりました、今私は小岩に居りますから東京へ来た時は一寸足をのばして下さい、では皆様お身體を大切に、この手紙の着くことを祈りつゝ、亂筆お許し下さい、ではさよなら、

リップ・バン・ウインクルとは、最近では岩井俊二監督の映画のタイトル『リップヴァンウインクルの花嫁』で知られますが、アメリカ版浦島太郎なお話の主人公です。この手紙が届くや、尾崎さんは折り返し返事を出し、それを受け取った父もまた、すぐに返事を書きました。そして、昭和二十七年七月二十九日に、上京していた尾崎さんを父が訪ね、再会を果たすのでした。父と再会した尾崎さんは、昔とあまり変わらない父の顔にとても救われたと書いています。

多分それは、昌久君の顔に、過ぐる七年の惨苦の跡など微塵も認められなかつたからだらう。

そしてそれは、父が手紙に書いたような表面上は明るいカラ元気ではなく、

恐らくは、伸びようとするいのちの若さそのものだらう。

と察します。田舎での暮らしから解放された父は、まさに新しい人生の一歩を踏み出して、そのエネルギーが体から溢れていたのでしょう。

次回は、父が尾崎さんの家がある下曽我を訪ねた時の話に触れたいと思います。それでは今夜も松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

日付が変わり、今日は父の八十六回目の誕生日です。おとうさん、お誕生日おめでとう。長生きしてね。

※トップの写真は、父の家族のことが描かれた作品をまとめた池田書店版『ぼうふら横丁』の表紙。絵は中川一政。尾崎さんは、仲間と同人誌を作っていた学生時代、中川氏に無理を言って表紙をお願いしていた、そんな長い付き合い。裏表紙には都内定価二百円、地方定価二百十円とある。これは、一九五一年に決まり(五二年から施行)、五〇年代いっぱいくらい実施されていた書籍価格の制度だという。

尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。