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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと22

子どもの頃から、我が家には何かしら動物がいましたが、その多くは訳あって我が家にやってきた子たちでした。怪我をした伝書鳩、逃げてきたカナリア、脱走して保護されたヒマラヤンなど。中でも印象深いのは、ウサギです。新婚の叔父(母の弟)が夜店で買ってきたテーブルうさぎ。大きくならないという触れ込みでしたが、ウサギなど飼えない、とお嫁さんに拒否されて、うちで引き取ったのです。大きくならないはずのうさぎは、どんどん育ったため部屋飼いを諦め、父は木材と網を調達して、庭に兎小屋を作りました。しばらくすると、さらに二坪ほどの広さがあるうさぎの運動場を父はこしらえました。何本か木も植えられていました。開放的な場所を与えられたうさぎはさらに大きくなり、野生を取り戻し、野良猫を威嚇するほどになってしまいました。

終戦直後のハイパーインフレが引き金で、将来のためにあったはずの親の遺産がすっかりなくなってしまい、進学が危ぶまれた父が、なんとか高校進学を決めた時、自分でお金を稼ごうと心に決めます。その最初が、家畜の飼育でした。だから、父にとってうさぎの世話など手慣れたものだったのです。そんなことを知らない幼い私は、どうして、学校の飼育小屋みたいなんじゃない、うさぎ牧場みたいな運動場を作ったんだろう、と訝しくてなりませんでした。ある時期、大して広くない庭の、かなりの部分をうさぎが独占していました。

ごく最近聞いた父の話によれば、「伊豆の農家の子どもたちは、いずれ家畜の世話をするので、予行練習みたいな形で、まずうさぎを飼うんだよ。僕は、柿の木を柱の一つに利用した兎小屋をつくったんだけど、そしたら、それまで実がならなかったのに、その秋からたわわに実って、またそれが美味しくてねえ」。そんな経験があったからこそのうさぎ牧場でした。うさぎの餌は、子どもたちがみんなして遊びに行った河原で詰むハコベやタンポポ、チグサなどでしたが、父は農作業の手伝いから抜けられず、河原に行く暇などありません。すると、誰かしらが河原からの帰り道、ぽーんと父のうさぎ小屋に草を投げ入れてくれたそうです。伊豆の人たちは、恩を着せるようなことが苦手で、でも、心根は温かく、そんな風にして父を見守ってくれたのです。

ある日、父に「これを育ててみろ」と手で抱えられるくらの箱に入った鶏の雛をくれる人がいました。それは、生後六十日くらいのクズ雛と呼ばれるもので、養鶏所ではじかれた生育不良の雌のこと。「三十羽くらいいたかなあ。以前にチャボを買っていた小屋が空いていたから、そこで飼うことにしたんだ」。餌にも工夫をしました。近くに流れる狩野川にテンモクという仕掛けをして小魚を採り、それを餌にしたのです。テンモクというのは、中伊豆での呼び名でしょうか。もんどり、とか、びんぶせ、と呼ばれる、胴囲が太い、底の抜けたガラス瓶で、これを川の流れに沿って置き、小糠を撒くと、それがガラス瓶に吸い込まれていきます。魚はそれに誘われて、瓶の口から中に入りますが、出口になる底には蚊帳が張ってあるので逃げられません。「ハヤとか小魚が面白いように獲れるんだ」。父は獲れた小魚をそのまま鶏にあげると、器用につついて小魚の骨を折りつるりと飲み込むのでした。他に、削り節の粉も餌にしました。

父が暮らすあたりに削り節を売りにきているおばさんがいて、この人は糠漬け名人としても知られていました。「でも、なかなかいい小糠が手に入りにくいらしくて、僕を手なずけようとしてね」。円蔵さんの家は酪農と農業を兼業していたし、牛の餌用に小糠はふんだんにありました。だから、父は気前よく小糠をおばさんに渡し、その代わりに削り節を篩にかけた時に出る粉をもらうことにしました。「これも、鶏の餌にしたんだよ」。新鮮な小魚と削り節の粉、それから青菜も育てました。そんな餌で育てられた鶏はぐんぐん育ち、「マサの育てる鶏は月夜に輝くようだな」と従兄が驚くような、銀光りするような毛並みになりました。三十羽の雌鶏たちは、毎日立派な卵を産むようになるのです。

「ぽっこりと黄身が盛り上がって日の出みたいだったよ」。その卵に目をつけた人が、父に売ってくれないか、と掛け合ってきました。父が喜んで売ると、その人はゆで卵にして三倍の値段で売ったそうです。「僕から八円で買うと、ゆで卵にして二十四円くらい。おじさん、高く売るね、と言ったら、美味しく茹でるのはコツがいるんだよ、と笑ってたよ」。その茹で卵が美味しいと評判がよく、どんどん持ってきてほしいと頼まれるようになりました。1日に十個から十八個は採れたので、なかなかの売り上げです。その売り上げは、すべて円蔵さんの妻であるおきみさんに渡したそうです。お小遣いとして貯めようとは毛頭思わず、自分の生活費や学費の足しに、と父は律儀でした。もう一つ理由がありました。「いつも仏頂面の伯母さんが、その時だけえびす顔になるんだ。その顔が見たかったんだろうなあ」

子豚の飼育も始めました。近所の家で豚が出産したことを聞きつけた父は、子豚見たさに覗きに行きます。豚は多産で、八匹くらいが母豚の乳首に吸い付いています。が、よく見ると、母豚の乳首が足りず、あぶれている子豚がいました。きっとあの子豚はダメだな、と話している大人たちの一人が、ふと父を見つけて、「あんたのところは牛飼ってるから、牛のお乳で育ててみな、って言われてね」。父は、世話をしている乳牛の小屋の片隅で、豚を育てることにしました。

「どうしたらいいかなあと考えて、まず自分の人差し指に牛乳を浸して子豚に飲ませたんだ。するとちゅうちゅう吸うんだよ」。そんな風にしてお乳を与え続け、少しずつ牛乳の量を増やしていきます。牛乳をあげる指が人差し指と中指の二本になり、さらに薬指は加わるくらいに量が増えた頃には、子豚は元気に育っていました。子豚にとって父の指はおっぱいです。だから、父は母豚同然で、「学校から帰ってくると、牛小屋の戸のところで子犬みたいに待ってるんだ」。父が牛の餌用の草を刈りに河原へ行く時には、一緒に連れていきました。子豚は草を食べたり、土を掘ったり、泳いだりしたそうです。「ブヒッて声をかけると、ブヒッて答える。それが帰るぞ、という合図で、また一緒に戻るんだよ」。この豚も、手入れと餌のおかげで、従兄は鶏同様、「銀狐みたいだ」と驚くほどの、毛並みのいい豚に育ちました。

父は、すでにたくさんの家畜の世話をしていました。多いときは二十頭いたという乳牛は円蔵さんの家の家畜。ここに、鶏と豚が加わりました。あとはうさぎや猫もいました。学校に行く前も、帰宅後も、休む暇はありません。餌をやり、排泄物の掃除をします。が、お金を稼ぐと決めた父は、鶏と豚も懸命に育てたのでした。

あるとき、飼っていた鶏がイタチにやられてしまいました。イタチは野ネズミを獲る益獣なので駆逐はしません。が、時折、鶏を襲うのです。鶏は首から血を吸われて絶命していました。すると、おきみさんが、鶏をさばいてすき焼きにしようと言うのです。「僕の飼っている鶏なんだから、自分でやれってね」。熱湯をかけて羽根をむしり、包丁でさばいた父は、辛くて仕方なかったそうです。父が上等な餌を工夫して育てた鶏ですから、「みんなうまいうまいって食べてたよ」。

屠場に牛を連れて行ったことも何度となくありました。大きな牛を一頭、小柄だった父が引いている姿は、高校で話題になったそうです。大きな牛と格闘しているとすれ違った学校の先生が、「山下は偉いんだぞ。山のように大きな牛を引っ張って売りに行く手伝いをしてるんだ」と。

朝七時に修善寺を出て、三島の屠場に着く頃にはラジオからのど自慢の音楽が聞こえたそうですから、昼頃でしょうか。牛歩のスピードでなんとか目的地にたどりつこうかというとき、「牛が急に歩かなくなるんだ。きっと血の匂いとか嗅ぎつけるんだろうなあ。一生懸命手綱を引っ張ったり、辛かったなあ」

子犬みたいに懐いた子豚だって、やはり売らなければなりませんでした。ペットではない、家畜です。稼がなければなりません。「修善寺でもそうだったけど、高校卒業して東京に戻ってからも、しばらくは、牛も、豚も、鶏も、僕は食べなかったなあ」

三年前に亡くなった母は、父から動物を飼育した話を聞くのが好きでした。鶏を育てた話、子豚を育てた話は、何度でも聞きたがったそうです。私も、父が動物のことを可愛い子分や仲間のように話すので、好きな思い出話です。父は可愛がった話や、餌の工夫を面白おかしく話します。そして時折、叱られて悲しくて、牛小屋で一夜を明かした話なども加わります。霜がキラキラと雪のように降る夜、干し草の上で横たわる父に、懐いていた牛が体を寄せてきます。そうして暖をとりながら眠るのでした。その光景は童話の世界のようですが、「翌朝、そのまま学校に行ってたんだから、随分汚かったと思うよ」と父は笑います。

次回は、家畜の世話からさらに発展して、本格的なアルバイトを始めた話を続けます。アルバイトで出会った人たちがいい影響を与えてくれて、大きく成長させてくれたんだよ、と父は言います。では今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!

※トップの写真は、父が小魚を取りに行ったり、仕事の合間に泳いだりした狩野川。今年も、父や私の代参で夫が牧之郷へ墓参りしてくれた、その時の写真。

尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。