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言葉にしたら

「ねえ、天国ってあると思う?」
ー天国があるとは思わない。

この文を見て、あなたはどう読み取るだろうか。
私は天国があるともないとも思わない、そもそも天国というものに対する思想が薄い。だから「ある」とは思わない。

けれどこの一文を口に出すとき、まるで天国が「ない」と思っているようだなと感じる。

ああ、言葉から意味が零れ落ちた。

文法的には何も間違っていない。
「あると思わない」は「あると思わない」であって、それ以上でも以下でもない。
そう、文法的には。

私の考えをなるべく丁寧に伝えようとするならば、
「私の中には天国というものに対する実感がない」もしくは「私には天国がわからない」になると思う。
ただ、私だけだろうか。
「天国ってあると思う?」に答えるときに「ある」「ない」で答えるべきだという考えが真っ先に思いうかぶのは。

本当は、もっと話をしたい。
天国って何のことなのか。キリスト教的なHeavenのことかな。仏教的な極楽浄土のことかな。もっと抽象的に死後の世界のことかな。「ここ」ではない救いの場所のことかな。
何かの記事や本や映画をみて、その質問をしたのかな。
その質問にはどんな文脈が付随したのだろう。
私に想定できるどんな「天国」も、私の中に実感を伴って存在しないから、「あると思わない」という答えは間違いにはならない。
でもあなたがその質問をするに至った経緯を私は知りたいし、愛おしいと思う。

なのにこうして、たった一つの質問を品詞分解するようなレベルで一つ一つ擦り合わせようと質問してしまうことが、時に暴力的であり得ると思っている。
私だって、それほど精密に言葉を発しているわけではない。会話のテンポの方を大切にしたいことだってあるし、くだらない話題をくだらないまま楽しみたいと思うこともある。
特に口で話す会話のキャッチボールでは、私の文章の点検速度を出荷速度が上回ってしまって、出荷後に点検をし始めて消え去りたくなることがほとんどだ。いくら点検したって、二度と取り返すことはできないのに。

例えばそんな時に、相手が私の発した言葉に私以上に真剣に向き合ってくれたら、きっと私は耳まで真っ赤にして答える。
「ごめん、そこまで真剣に言ってなかった…」
私はこれを言う側の立場にも言われる側の立場にもなったことがあって、その度に言葉にすることの不自由さを恨みつつ、その場その場で最大公約数的な出力と入力を探ってここまで生きてきた。

これを擦り合わせる作業に耐えてくれる人と話していればいいのだろうし、こうして私の言葉の定義や文脈づくりを私のペースでできる文章という形を選ぶことも多いけれど、これだって読者の皆様の忍耐力に縋り付いているようなものだ。
それでもなお、「言葉」を「意味」に限りなく漸近させる途方もない試みをしているだけで、「言葉」という公共の器を前に「意味」に寸分のズレもなく重ねられる日など来ないのだけれど。

一体どれだけ賢くあれば、この不如意から解放されるのだろうか。

言葉にすることは、
私にとっては考えることと常に共にある。
記憶することも言葉なしにはできない。
言葉にすることは、
私にとっては世界に、あなたに手を伸ばすことだ。
自分の輪郭を探り、世界と目を合わせようとすることだ。

それはともすれば、衣食住以上に生きることと不可分の営みだ。

なのに、だからこそ、言葉が恨めしい。

言葉は残酷なほど曖昧に世界に線を引き、内と外を作る。
言葉は事象を定義するが、それぞれの定義は同一平面上にはなく、隙間なく敷き詰められてもいない。なのに言葉はそこに収まらなかったものやその間に落ちたものを矮小化したり、或るものを「ある」とすればその他のものを「ない」かのように錯覚させたりする。

何かを言葉にすれば何かを排する。
本当はそんなことはないはずなのに、そう感じる人がいたとしても責められないのは言葉の原罪だろう。

坂口安吾の「恋愛論」にはこんなことが書かれている。

惚れたというと下品になる、愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、あるいは実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、しかし、私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊饒な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持になっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣裳をしているようなものだ。

坂口安吾/恋愛論

大学生の時に読んで、ショックを受けた。
責められているようにすら感じられた。
正直、ダサいことを言えば、この視点を持たずに生きて行けたならこんなに苦しまなかったのではないかと思わずにはいられない出会いだった。

要は、私の本質的な態度が問題になるのだ。
言葉が、言葉にすることが諸悪の根源なのではない。
少なくとも私という人間は言葉と共に生きていくほかやりようがないのだから、私の中で自然に立ち上がるこの恨み節を、恨み節のままで終えるわけにはいかないのである。

言葉より先に、世界が、人間が、あなたが、そして私が在る。
言葉にそれらを喰わせないようにすることができるのは言葉を使う人間であるはずだ。とりあえず今現在地の私はそのように考えている。

ただ、先ほども言った通り、私にとって言葉にすることは世界に、そしてあなたに手を伸ばすことだ。世界は変えられなくともあなたにはわかって欲しい。

受け取るも受け取らないもあなたの自由だ。
けれど私がもし、あなたと話をする中でしつこいくらいに言葉の定義を確認したり、一言で済むものに何十、何百何千の文字を費やしたなら、それはあなたを困らせたいのではなく、私なりの精一杯の求愛なのだと知っていてくれたらありがたい。





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