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사라라

私の好きな人たちが、ご自身の誕生日に文章を書いていた。今までの私は自分の誕生日を特別に思えなかったけれど、ここ数年大切な人の誕生日に寄せて文章を書いているなかで、やっぱりひとつの結び目のような日なんだろうなと思えるようにもなったので、書いてみようと思った。

学生時代、誕生日に話すことといえば抱負だった。
けれど私は抱負を書くことが苦手だ。
その時その時で私なりに持続可能な形でベストを尽くそうとは思っている。けれど、それを人に示すことはなんだか苦しい。
他人にわかる言葉で表そうとすることも苦しいし、それが未来の話なら尚更苦しい。
そもそも、未来のことを考えるのが苦しい。
希死念慮のように生きることに対する明確な拒否があるわけじゃないけれど、速度の出ない自転車をよたよたと漕ぎ続けている感じ。

特別辛いことがあるわけでもないし不幸だと言いたいわけでもない。ただ、性質として、多分私の自転車はこの先もずっと速度を出せないままだと思う。進むか倒れるかだったら倒れる方が簡単な状態で走り続けている。
常に目の前に選択肢が出続ける。
「続ける」or「中断する」
ここに「セーブ」があればどれだけ楽だろうか。
それでも26年「続ける」を選択し続けてきているんだから、我ながら生きることに熱心だなあとすら思う。

そうか
もう26年か。

26年も「私」を続けてきたんだな…
26年、何かを続けてきた話を聞いたらどう思うだろうか。私は、途方もなく凄まじいことだと思う。
一日一日と紡いできた糸は、気づかないうちにこれだけの長さになっていたんだね。
なんだか不思議ではあるけれど、今の私はその事実に対して素直に拍手を贈れる。

後ろ向きだろうか。
…間違いなく後ろ向きではある。
でも、私という人間は後ろを向いたときに初めて顔をあげられた。
と思ったけれど、後ろを振り返って出発点を眺めた時にようやく顔が前を向くくらい遠くになっただけかもしれない。

出発点はいい。場所を知っているから。
終着点は見えないからよくない。私が先を見たくない理由のひとつだ。道は自分で決めるから、いつまで続くのかくらいは教えてほしいなあ。

私の自転車が速度を出せないのは相変わらずだけど、最近はなんだか少しだけ息がしやすい。

なんでだろう。
SEVENTEENの話をしようと思い立って書き始めたわけじゃないけど、多分CARATになってから変わり始めた。
CARATになってから変わったものを自覚するたびに、恐ろしい気持ちになる。CARATにならなきゃ、生きることを知らないまま死ぬところだった。 
週に一回くらいこうしてヒュッとなる。
幸せ者め。

生まれてきたことを恨んだことはないけれど
ずっと私が私で在ることが憎かった
今も憎い
「いなくなりたい」じゃなく「お前なんかいなくなればいい」と、私が私を指さす。
指をさされた方の私は、ただ口をキュッと結んで俯くことしかできなかった。
けれど今、「お前なんかいなくなればいい」と責める私はまだ健在だけど、指をさされる方の私は「もうちょっと待ってほしい」と言えるようになった。

誇張してると思われるのも依存してると思われるのも嫌だけど、今日くらいは素直に話したい。

私の頑張る理由はSEVENTEENではない
頑張るのは私のためだし、そうやって生きてきた。
頑張るのは生きることを許されるためだ。
けれど生きていこうと思うのはSEVENTEENがいるからだ。
SEVENTEENにさえ出逢わなければもっと簡単に手放せたのに、と思った夜は一度や二度ではない。

指をさされた罪人の私は、必死に懇願する。
SEVENTEENがSEVENTEENに幕を引くまで…そしてその後数年は、SEVENTEENとCARATがどう生きていくのかを見届けたい。どうか。それまで待ってほしい。

SEVENTEENはアイドルグループだけど、SEVENTEENのメンバーひとりひとりは人間だけど、SEVENTEENとCARATの作り上げる「間」は世界でしょう。その世界の中では、私は未来をみたい。

愛してる。
愛してるよSEVENTEEN、CARAT
愛してるよ世界

必ず来ることはわかっているけれど
唯一、見えなくていいと思える「終着点」まで。
どうかそれまで赦してください。

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