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言葉の呪力

 2016年9月28日から言の葉採集帳というノートを作っています。本、漫画、雑誌、SNS、WEBサイト、テレビ、就活中のメモ帳…身の回りのあらゆる狩場から自分の琴線に触れた言葉を採集して保管するノートです。細々やってきて、今は二冊目になります。

 「言霊」というだけあって、人の思いが乗った言葉は凄まじい情報量を孕んでいます。話し手の主張・思想は勿論、今までどんな言葉に触れてきたのか、どんな人に影響を受けてきたのか、どんな調子で自分と対話してきたのか…そういったものの断片が垣間見えるのがとても刺激的かつ魅力的です。その文章の筆者が口で話している姿との対比があれば、さらに面白い。

 とはいえ私は「読書家」「本の虫」なんてものでは到底ございません。以前「『努力』という言葉が怖い」というnoteでも触れましたが、私は非常に軽度ではありますがディスレクシア(識字障害)に近い傾向を持っています。詰まっている文字を見ると目が回ったり、単語の切れ目が分かりにくかったりします。文章を読むことが好きなのに、奇しくも文章を読む機能はポンコツなのです。

 ままならないものほど希求してしまうもので、だから手元に置いて何度でも眺められるように言葉を大木から伐採してきて集めたもの。それが言の葉採集帳です。

 そんなことを続けているうちに、自分にも言葉を操れるのではないかという幻想を抱くようになりました。実際周囲の人にも「考えや状況を言語化するのがうまいね」なんて言ってもらって、虚構の万能感に浸っていました。

 しかし就職活動を始めて、その幻想は儚く砕け散りました。初対面の、私と離れた人生を歩んできた人々に、自分の中で叩き上げてきた言葉は何一つとして響かなかった。不自由で、不如意でした。

 しかも何故こんなにも不自由なのか、何故こんなにも相手に向けて放った言葉が虚空に散っていくような感覚を覚えるのか、当時の私には解らなかったのです。

 そんな時に坂口安吾の「恋愛論」を読んで、頬をひっぱたかれたような気分になりました。

言葉に頼りすぎ、言葉に任せすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまり我々の言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。(中略)われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊饒な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持になっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣裳をしているようなものだ。

 私はまさにこれだったのです。先人たちの積み上げてきた言葉のイメージの上に胡座をかいて、その枠を借りて思考の型抜きをしていただけでした。だから私と同じような言葉に触れてきた人や、常日頃から私と接している人にしか言葉が届いた感じがしないのです。

 こうして見事にスクラップされた私の言葉は、今再構築中です。リハビリと言った方が適切かもしれません。このリハビリが思ったよりきつくて、さっさとそれっぽい言葉を書いてしまいという欲求に駆られます。でも不甲斐ないことに、文学的な言葉も、詩的な言葉も、私の内側からは一つも滲み出してこないのです。きっと「借り衣装」を借りパクし続けた罰なのでしょう。

 私が心底惚れてしまうような文章を書く方々は、皆おしなべて苦しそうで息も絶え絶えな様子に見えます。要はそういうことなのでしょう。人に借りた灯火は一旦横に置いて、地に這い蹲り手探りで何かを掬い上げることをしてみなければ、私は私の言葉を手に入れられない気がします。

 行き交う言葉、そこに含まれた有象無象をニューロンいっぱいに取り込んで、その連結からもう1度言葉が染み出して来るまで気長に待ちましょう。

 何と言っても言葉の呪力というものは、そこまでして手に入れたいと思わせてしまう処に在ると思います。煙のようなものだから、手に入ることなど一生在り得ないのかもしれませんが、それでも。


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