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自分軸へのインビテーション

誕生日(4/5)あたりから「自分軸」を自覚する機会が増えた。

というより「自分軸」への認識が拡張した、のほうが正しいかもしれない。


「風の時代」なんて言われ、自分の価値観を大事にしよう、「好き」を優先しよう、思い込みから解放され、不要なものを手放そう、というフレーズが飛び交っている2022年。

正直「自分らしさ」とか「好きを大事に」というフレーズにうんざりしている時期が昨年あった。
煩わしいし、「素直さ」の強要だと思ったこともあるし、そんなのできるやつが言うことだ、と一蹴していた。

ただ、落ち着いて考え、バタバタしがちな自分のペースを整えていくと、「社会軸(関係性)」がしみ込んだ自分を発見してしまった。

特にショックだったのは、やることを(一応)終えた一人の深夜晩酌においてさえ、ラストオーダー終了間際の如くガブ飲みしていた自分に気づいた時。
一人で気兼ねなくお酒とつまみを味わえる時間だったのに、そこにいたのは「社会軸(関係性」の自分」だった。
読書と日本史が大好きで、podcastやっていて、好きなことをやっていると思っていた自分は、自分の意志ではなかったのではないか、と愕然としたものですw

そんな出来事を味わいながら、少しずつ「社会の要望に応えようとする自分」と「応えられない自分」そして「社会の要望に応えられないみじめさを抱えながら、自分なりに半歩踏み出している自分」を見つけていった。

例え社会的に評価されなかったとしても、あがいたことをそのまま認識できた。社会の要望、自分の理想に全く届くことがないと知りながら、蟻の一歩を踏み出しているそのみっともなさが、ぼくの「イマ・ココ」だった。

どこかズレていて、それでいてそのズレを「在りたい姿」へたどり着くための必要条件の如く認識していた自分が、ペラっと飛んでいった。

要望と理想、現実と実態。
無意識に分けていた自己認識がすーっと統合されていき、ズレの少ない「イマ・ココ」が体全体にじんわりひろがっていき、そこに「自分軸」が見えた気がした。

あがいている自分は、とってもリアルに感じられた。
だから、あがいているとき、ぼくは自分になれていた。
そして(おそらく)ぼくと同じように、社会と個人とで引き裂かれているなか「イマ・ココ」を歩んでいる人たちと同じ道を歩んでいる、と思えた。

誕生日前の4/1に自覚した「イマ・ココ」と「みんなと同じ道を歩んでいる」気づきは、なかなか強烈だった。
しかもその認識が出社途中に突然やってきて、泣きながら大通りを歩いていたことは、今考えると奇怪な光景だっただろうなあ(マスクしててよかったw)

素直ではなく「自分らしさ」がまだわからないぼくは、要望と理想との間で引き裂かれていながら、その苦しさの中で踏み出すことでしか、リアルな自分を立ち表せることができていない。

でも、そんな自分だからこそ、開けていく道があるんだと思う。
今は、そのたくさんの体験をじっくりしみ込ませていき、繰り返し練磨して、自分をそぎ落としていく。

研ぎ澄まして形が見えたとき、引き裂かれてもそれを活力に変えられる「強い自分」が立ち現れる。そんなイメージを少しずつ作り上げていこうかな。

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