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お参りが上手くなる方法がある

我が家から徒歩15分弱のところに、不動尊がある。
通勤路でも散歩道でもない、ある意味用事がなければまず行くことのない方向に、それは立っている。

しかも、驚くべきことに、野外にいらっしゃる。


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今のところ晴れの日にしか訪問したことがないが、曇りの日も雨の日も、この御方は、屋根のない場所に鎮座している(はず)

最近は出社日が増えたため、なかなか行けないのだが、今日みたいに時間が空いたときには、散歩がてら訪問するようにしている。

なんで?、と言われると、この空を背景にした不動尊を見たいから、というのが本音で、散歩はおまけ。
やはり、神社やお寺といった、ご本人のご自宅におじゃまするより、外でお会いできた方が気が楽だ(そういうこと?)

周辺は静かな住宅街。

自転車の音
工事で休憩を取っているおじさんたちの話し声
かすかに聞こえるテレビ音声

日常の一角にたっている不動尊は、ある意味異様だが、彼(?)がいる風景もまた「日常」ともいえる。
やはり、野外にたっているその存在感は、たとえ見えなくても、「在る」と認知していればどこか意識がそこに向く。

そんなお姿を、今日も見に行った。

ある意味買い出しや犬の散歩、ゴミ出しのついでに立ち寄った、くらいのラフな感じで来ても、風景のひとつとして鎮座したその姿には異様さがある。
そして、それと同時に、何かを語りかけたくなる。

お寺や神社の中に向けてお参りするのとは、似て非なる距離感が、そこにはある。
後ろの人がいたり、誰かと一緒にきたのとは違う雰囲気が、そこにはある。

社交辞令をして、自己紹介をして、近況報告をして、少し本音を出し、嘆き、少し祈る。
お参り、というより、壁打ちをしてもらったような、そんな心持ち。
この不動尊とは、不思議なことに、長居をすることが怖くない。

◇僕たちには「願い事」の練習が必要だ

よく、成功している経営者は神社仏閣への信仰心が厚い、という話を聞く。
実際、新年初日の勤務日午前中が参拝、という企業は多く、三が日以降のお寺や神社にはスーツ姿の方々を多く見かける(コロナ渦時期は避けていたところが多かったようだが)

これをもって、神社仏閣への企業支援を振興する声があるが、ぼくの私見からすると、これは信仰心というより「短時間プレゼン」の訓練、という目的の方がメインだと思っている。

つまり「願い方」の練習だ。
初対面の神様仏様に聞いてもらえるように、叶えよう(応援しよう)と思わせるためにはどうしたらいいか、そのトレーニングだ。
※実際、窮したときのお願いって、ほぼ「お参り」時にやっている表現と同じこと言ってますよねw

ところが、

・後ろの人もいる、一緒に来た人もいる、という状況でバタバタしがち。
・いざお参りした際に語り掛けてみると、あれもこれも言いたくなる(もしくは〇〇ください、と具体的すぎることを言ったり、抽象的すぎることを言ったりする)

と、なるケースになりやすい。
果たして、神様仏様に届くような語り掛け(お願い)ができているのかどうか?と検証してみると、かなり怪しいケースが多いのではないだろうか。
(もちろん、具体的にひとつ、明確なことをお願いできてるのであればそれに越したことはないが、それはだいぶ参拝の目的が明確だった場合に限るような気がする)

自分が何を望んでいるのか、何がしたいのか、何を言いたいのか、何に困っているのか。
自由意志や個人の主体を尊重する、という言い回しはありつつも、内包されている無言の「世間」や「空気」の中で、ぼくたちは無意識にたくさんのことを自制している。それがいい方向に向かうこともあるけど、「願い方」まで自制することはないはずなんだ。

だから、周りを気にせず、時間を気にせず、そのものと正対する。
つたなくても語り掛け、対峙することで、漏れ出てきた「ホンモノ」を自覚し、再びそれを飲み込む。

お参りも、スキルなんだ。

だから、また明日も、できれば明後日も。

「お参り」が上手くなりたい。
最近の欲求のひとつである。





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