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「伊東潤の城めぐり 武田家滅亡ツアー」レポート(後編)

【最初に】

この記事は、「伊東潤の城めぐり 武田家滅亡ツアー」(2019.5月実施)の様子を書いたレポートです。

すでにこのツアーについては、「武田勝頼は愚将だったのか? 歴史小説家・伊東潤がみた「武田家滅亡」という(ドキュメント+エッセイ風)記事で発表済みですが、今回はこのツアーのレポートに特化した記事になっています。


また、実をいうと、「武田勝頼は愚将だったのか? 歴史小説家・伊東潤がみた「武田家滅亡」は今回のレポートを基に発表したものでした。

つまり、このツアーレポートが「伊東潤の城巡り 武田家滅亡ツアー」の様子をお伝えする≪完全版≫です(内々で「フルサイズ」と呼んでます)


今回多少手は入れていますが、ほぼ当時発表しようと思っていた文章をそのまま掲載します。参加された方も、参加できなかった方も、是非その雰囲気を感じ取っていただければ幸いです(本文中 敬称略で進行しています)

※この記事は後編になります。前編はコチラ↓

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2019年5月12日(日)午前9時。ツアー2日目の朝。
宿の外に出ると、夏日だった前日に引き続き、雲一つ無い青空が拡がっていた。
今日も暑くなりそうだ。

本日はいよいよ、武田家滅亡の日の行程を追体験するコースの日。

昨日と異なり、やや重々しい雰囲気になりそうな予感がする。


1582(天正10)年1月。
木曾義昌の謀反をきっかけに、織田・徳川連合軍が武田家領土へ乱入。

それまで同盟国だった関東北条家とも敵対し、唯一の友好国・上杉家は謙信の後継者争いで疲弊。

戦国最強と言われた甲斐武田家はわずか2ヶ月あまりで滅亡。

武田勝頼は設楽原(長篠)合戦の大敗から巻き返しを図るも、躍進する織田信長に対抗することはできなかった。


勝頼の眼には、何が視えていたのだろうか?


■2日目
(1)終え方の選択


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武田八幡宮と並ぶ武田家の聖地・恵林寺。

とにかく敷地が広い。

日曜の朝早い時間。人手はまばら。

一層、その広大さが伝わってくる。


伊東潤によると、一般的に寺や神社の敷地は、時代を経ることに減っていくものらしい。だが、恵林寺は大きく変わっていないのではないか、とのこと。
だとすると、保存状態の良さや寺側の尽力はもちろんのこと、地元や自治体の理解が深いということになるのだろうか。

解説を聞いて、改めて左右を見渡すと、木造の渋い色合いの文化財が次々と目に飛び込んでくる。

派手さはないけれど、内々にそのエネルギーを持ち、泰然とそこにある、という印象。

多くの人々を支え、支えられて、今なお信仰を集める。
その静かな佇まいに、多くの歴史が凝縮されているのかもしれない。

本堂の中に入り、きしみ音が鳴る廊下を歩く。
培われた歴史の息吹を感じながら奥へと進んでいき、「武田不動」の前へ。
武田信玄が模刻されたという不動明王に手を合わせ、さらに奥へ。

この日は武田信玄の命日と同じ日付・12日
私たちは屋外へ赴き、毎月1回しか見ることのできない聖域へ。
 
(実は本ツアー打ち合わせ時に、ツアー会社側からこの日の実施を薦められていたらしい)
本当の命日(4月12日)ではないものの、私たちは信玄の墓所を拝見し、手を合わせることができた。


戦国大名屈指の実力と人気をほこる武田信玄は、毎年4月12日に供養が行われ、家臣約70墓と共に、この地で静かに眠っている。


信玄は生前から、恵林寺を自らの菩提寺として定めていたといわれている。
その理由は場所(恵林寺)というより、高僧・快川紹喜がいたから、の方が正しいかもしれない。


美濃国(今の岐阜県)から信玄たっての希望で招かれた快川紹喜は、その教養や精神性を高く尊敬された。それだけの魅力を持った存在のおかげで、恵林寺は寺としての価値を高めていく。
そして、生前の望み通り、信玄は恵林寺に葬られた。

もっとも、その生涯の終え方については、望み通り、とはいかなかった。

武田信玄は晩年、織田信長と対立。信長と敵対する他勢力と連携した信長包囲網の中核的存在になる。
そして準備を整えて躑躅ヶ崎館を出発。西へ向かい、信長の同盟者であった徳川家康を打ち破る。

圧倒的な軍事力、全てを見通す戦略眼。
武田軍団の前に敵は無し、と思われていた。

だが、遠征前から信玄は病んでいたといわれている。
家康を撃破し、いよいよ信長領国へ進出、というときに体調が悪化。
そのまま、信長にたどり着くことなくこの世を去る。
「3年の間は、自分が死んだことを隠せ」と遺言したと言われており、その死は伏せられた(もっとも、信長はその事実をすぐに掴んだことが近年明らかになっている)

3年後の天正4(1576)年、遺言通り恵林寺にて、葬儀が行われた。
導師はもちろん快川紹喜。
そして施主は、武田勝頼だった。

正式な当主ということではなく、息子・信勝の後見人という立ち位置ではあったが、この日を境に、勝頼は武田家の舵取りを正式に任されることになる。
(伊東潤によると、近年の研究では勝頼の立ち位置について異説があり、当主としての発言力を持ち合わせていたことを思わせる史料が見つかっているらしい。これまで勝頼は正式な当主ではなかったため発言力に乏しかった、という定説があったが、今後それが変わるかもしれない)

信玄の葬儀から6年後、甲斐国は織田軍の侵略を受ける。
武田家の城を次々と攻略した織田家が歩を進めたのは、恵林寺だった。
快川紹喜が武田方残党の元大名・六角義定を匿ったことが問題になったからだ。

織田方は六角の引き渡しを要求するものの、拒否されたため、快川紹喜らは三門に閉じ込められ、生きたまま焼かれるという惨い仕打ちを受ける。

だが、快川紹喜は火に包まれながらも少しも動じなかったと伝えられている。「心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉とその功績は、信玄が見込んだとおりの存在として後世に語り継がれている。
(現在の三門には遺偈が掲げられている)

死すら託せる相手を得ていた信玄。

勝頼ににそういった理解者がいたかどうか、寡聞にして聞いたことはない。

諏訪家に生まれ、後継者として武田家を背負う体制ができあがる前に、その大任を担うことになった勝頼。
やはり、自分の力ではどうしようもない、大きなハンデを背負い続けた武将だったのだ。

(2)最後の一夜

ツアーはいよいよ、勝頼最期の地へ近づいてきた。

1582(天正10)年3月
勝頼ら武田家首脳陣は、命運を賭けた選択を迫られていた。

新府城で戦うか。

新府城を出て逃げ延びるか。


完成途中の新府城に籠もる選択肢は消え、逃げ延びる方向へ議論は進む。

一説によると、真田昌幸の岩櫃城か、小山田信茂の岩殿城のいずれかに絞り込まれたが、真田昌幸の忠節を疑った勝頼側近によって、小山田信茂の岩殿城へ決まったと言われている。

伊東潤はその説に懐疑的だ。
そもそも、新府城から岩櫃城まで、現在の距離で約160kmも離れている。女子供を伴っての移動を考えるとかなりの距離だ。織田・徳川連合軍に追いつかれる可能性も高い。現実的ではない。

それに対し、岩殿城は近さに加えて、北条氏領土に近いことが魅力の一つ。北条氏と武田氏との関係は悪化していたが、勝頼夫人は北条から嫁いだこともあり、つながりがないわけではない。
岩殿城へ身を寄せることは、状況を考えれば悪手とは言えなかったのだ。

最終的に岩殿城へ移ることが決定。

道中、勝頼一行は大善寺に立ち寄る(目的は戦勝祈願とされている)


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通称、ぶどう寺。


ぶどうを持った薬師如来が本尊とされていることから、その名で親しまれている。
甲府盆地を一望できる柏尾山に建立されているため、非常に見晴らしがいい。

本堂へ続く階段はかなりの急角度で登りきるのに一苦労だったものの、そこから見える風景は格別。
古来よりここから甲斐国(山梨県)に住む人々を見守ってきた、ということなのだろう。

敷地内には、国宝が2点も保管されており(薬師堂と厨子)、重要文化財や貴重な文化財が多数保管されている。

本堂には薬師三尊像が安置されているのだが、姿を拝めるのは5年に1度。
残念ながらそれは今年ではなかったが、左右にある日光月光菩薩像、そのさらに左右の十二神像も貴重な文化財であり、見る価値は十分にある。
しかも、近くまで近づいて観賞すると、衣装(甲冑)が個性的で、表情に柔らかみがあり、どこかおちゃめだ。

観ている側も肩の力が抜けてきたのか、展示会や美術展ではあまり聞くことがない会話や笑い声があがっていた声があがる。
なんとも不思議なひとときだった。


この寺で勝頼は一人の尼と出逢う。
尼の名前は理慶尼。
「勝沼氏館跡」の領主・勝沼氏の娘にして、武田信玄によって謀反の罪で滅ぼされた一族の忘れ形見だ。

定説では、理慶尼は勝頼を厚くもてなしたといわれている。
このときの勝頼の様子が「理慶尼記(武田勝頼滅亡記)」として残っており、勝頼の様子を伝える貴重な史料となっている。

仇とも言える勝頼(及び勝頼嫡子・信勝)のことを、彼女がどう思っていたのか。史料から内面をうかがい知ることはできない。
(写本は大善寺に展示されている)

一時の安らぎを得た勝頼たちだったが、ここで勝頼は小山田信茂の裏切りを知らされる。
付き従う家臣はごくわずか。勝頼夫人を含めた女子供も同行している。

引き返すことも追っ手を振り切ることも難しい。

もはや選択肢はほとんどない。

勝頼は北に進んだ。向かう先には天目山があった。


(3)滅亡の日

史実では勝頼とその一行は現在の景徳院にて最期を迎えたとされている。

景徳院は日川渓谷の上流にあるため、バスは山道へ。
道は次第に幅が狭くなり、カーブが増えていく。

織田軍の追撃が迫っていることを知りながら、勝頼一行は女子供を伴っているため、ゆっくりとしか進むことができなかったと思われる。追いつかれるのは時間の問題だった。

啓徳院に向かう途中に「四郎作古戦場」と「鳥居畑古戦場」の石碑がある。
ここで、勝頼家臣は勝頼最期の時を稼ぐため、織田軍を迎え撃った。

すれ違いがかろうじてできるほどの道幅。
大軍を迎え撃つには適した場所かもしれないが、勝頼側は数人で雲霞の兵と戦わなければならなかった。
しかも、二つの古戦場間の距離はわずか200mほどの距離しかない。
そしてその先の景徳院までは1kmほど。

足止めとしては、ささやかすぎる抵抗だ。

戦国時代の武将は生き様よりも、死に様を重視したと言われている。
名門・武田家を背負った者として、勝頼はせめて雄々しい死を望んだのかもしれない。
どこかで、勝頼はそのことを告げたはずだ。

しかし、付き従った家臣たちはそれを許さなかった。
最期だからこそ、終え方の選択を放棄しないでほしいから。

『武田家滅亡』で主役級の活躍を見せる小宮山内膳もその一人だ。
武田家譜代の家臣であり、将来を嘱望される若手成長株でありながら、謀略や裏切りなどままならない苦汁をなめるが、かし主家のために奔走するその姿は、裏切りや憎しみが渦巻く武田家に爽やかな風を吹き込んでいた。

内膳は物語終盤で勝頼一行に合流し、その“わずかな時間”のためにその命をささげていく。奮戦したとされる「四郎作古戦場」はバスが停めづらく、降りた先も大人数が長時間いられるほどのスペースは無かった。

石碑に密着するように集まりながら見下ろすと、そこまで達する道路が確認できた。きっとその当時も、登ってくる軍勢がここから見えたことだろう。
 

記録では、その先の「鳥居畑古戦場」にて土屋惣蔵が後世 “土屋惣蔵片手切り”として伝説になるほどの立ち回りをみせるものの、最期は力尽きる。

さらに、景徳院へと向かう駐車場には、勝頼夫人最期の光景が石像で描かれていた。
絵面はどこか美しさを見せていたが、想像すると阿鼻叫喚が脳内に響き渡りそうだ。

北条家から嫁いで、実家と武田家の橋渡しをするはずが、両家は対立。
心を痛めながらも、最期の最期まで勝頼に付き従った生涯だった。

読んでだけでは実感がわかなかった。
このわずかな距離に秘められた数多の命のことを。



そして、見届けた勝頼にも、最期の時が訪れる。

景徳院の本堂へ続く階段は、大善寺に負けず劣らずの急角度。
本堂でお参りをした後、裏手にある勝頼・信勝・夫人の墓へ。

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3人の墓はなぜか甲将殿(武田家の遺品が保管されている)がある。

まるで、墓石を隠すかのように。

「これはなぜか、わかっていないんですよね。僕は勝頼たちを隠すために、家康がとった対応ではないか、と思っています」

そもそも勝頼が訪れたとき、景徳院は存在していなかった。
武田家滅亡後、この地を治めた徳川家康が、勝頼らを供養するために建立した寺、それが景徳院なのだ。

つまり、これらの墓石の位置関係には家康の思惑が絡んでいる、ということになる。

家康の思惑とは何だったのか。

謎は残ったままだが、目の前の光景を見ると、死後でさえ現世の思惑に付き合わされる悲しさが、胸にこみあげてきた。

勝頼と息子・信勝の最期については諸説あり、はっきりしていない。自害したとも、討ち取られたともされている。(説明文では明言を避けていた)

家が滅びてしまった。
自分が終わらせてしまった。


勝頼の悲痛な叫びが、聞こえたような気がした。

(4)終わりにかえて~残夢の匂い~

景徳院を持って、勝頼の足取りをたどる旅は終わりを告げた。
だが、もう一ついかなければならない場所がある。
勝頼が、本当にたどり着きたかった場所、栖雲寺だ。

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景徳院からさらに北上すること、約10km。
標高1,000m近くまで登り上げた先にある栖雲寺は、武田氏が代々庇護したゆかり深い寺。

小山田信茂の裏切りにより追い込まれた勝頼が下した決断。
それは、天王山の先にある栖雲寺まで逃れ、そこで最期を迎える、ということだったと言われている。


境内には武田家当主が必勝祈願をした摩利支天が祀られており、裏には巨岩からなる石庭がある。

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ここでは修行僧たちが日夜修行をしていたのだといわれている。

確かに、本堂は目立った装飾がない分、無用な要素をそぎ落としたかのような雰囲気を感じさせる。


織田軍に追いつかれたため、勝頼はここまでたどり着かなかった。

しかし、栖雲寺に来て、勝頼は自分の最期をきちんと描いていたのだと、私は確信することができた。


多くの重荷を背負ってきた。

だからこそ、最期は無になりたい。

もしかしたら、そんな思いが勝頼にあったのかもしれない。


≪終わり≫

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