見出し画像

「伊東潤の城めぐり 武田家滅亡ツアー」レポート(前編)

【最初に】

この記事は、「伊東潤の城めぐり 武田家滅亡ツアー」(2019.5月実施)の様子を書いたレポートです。

すでにこのツアーについては、「武田勝頼は愚将だったのか? 歴史小説家・伊東潤がみた「武田家滅亡」という(ドキュメント+エッセイ風)記事で発表済みですが、今回はこのツアーレポートに特化した記事になっています。


また、実をいうと、「武田勝頼は愚将だったのか? 歴史小説家・伊東潤がみた「武田家滅亡」は今回のレポートを基に発表したものでした。

つまり、このツアーレポートが「伊東潤の城巡り 武田家滅亡ツアー」の様子をお伝えする≪完全版≫です(内々で「フルサイズ」と呼んでます)


今回多少手は入れていますが、ほぼ当時発表しようと思っていた文章をそのまま掲載します。参加された方も、参加できなかった方も、是非その雰囲気を感じ取っていただければ幸いです(本文中 敬称略で進行しています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「伊東先生と一緒にバスツアーできたら、楽しいと思いません?」
2018年6月、「伊東潤の読書会」の懇親会。
当時参加して間もない私に、読書会運営のタケダさんはその構想を切り出した。

後で聞くと、読書会とは別のコンテンツとしてオフ会が企画されており、その到達点として、一泊二日ツアーが想定されていたそうだ。

作家さんとバスツアー。

どうなんだろ?と当時は思ったものだったが、その後「伊東潤の城めぐり」という日帰りツアーが非常に楽しくて、これが泊まりがけでできるなら、とツアーへの期待も高まっていった。

そして、2019年5月。
ついに「武田家滅亡ツアー」が開催された。

デビュー作『武田家滅亡』執筆前後に、何度も現地を訪れた伊東潤が、読者と一緒に、武田家ゆかりの地を改めて巡り、登場人物や歴史に思いをはせる2日間。

戦国最強といわれた武田家はなぜ滅んだのか。
そして私たちはそこから何を学ぶべきなのか。

参加者同士が楽しみながらも、“滅び”の道を体感する旅が始まる。

■1日目

(1)残したものと、残せなかったもの (前編)

2019年5月11日(土)午前8時43分。
甲府駅南口。
事前の予報を覆す快晴の空模様。
絶好の「城めぐり」日和だ。


これまで実施された「伊東潤の城めぐり」2回はいずれも快晴だった。
事前の雨予報を全て吹き飛ばす強運ぶりは今回も健在だ

今回のツアーの題材『武田家滅亡』は根強いファンが多いことで知られているロングセラー作品。作品に関する思い入れや造詣が深い方々が揃ったらしく、コースについても意見交換が盛んだった。

このツアーの魅力は、読んで自分一人で完結していた物語を、現地で体感することで、より理解を深めること。
そして一人では素通りしそうな所を、みんなで一緒に見て回る楽しさ。

しかも原作者の解説付きというぜいたくさ。
移動中のバス内・そして現地でも解説が聴けて、事前・事後の知識が高まっていく。

お得な構成だった。


画像1


最初に訪れたのは、山梨県釜無川。
かつては度々氾濫していたと言われている、甲斐の国の暴れ川だ。


武田信玄は氾濫による被害を減らし、恒常的な米作りを促進するため、堤防作りをスタート。
制作期間は20年にも及ぶ一大プロジェクトとなったが、堤防は完成し、氾濫による被害を最小限に食い止めていった。
作られた堤防は「信玄堤」と言われ、400年以上経った今でも見ることが出来る。

実はこのツアー、当初は新府城跡が最初の場所だったのだが、信玄堤が新府城跡に行く途中にあることもあって、私が訪問先にリクエストした。
山梨に来たのであれば、信玄が残したものを見ずにはいられない。


画像2

現地に行ってみると、堤防から見えるのは快晴の空に、穏やかな川、
そして眼前にそびえる南アルプスの山々。
ツアー最初の場所として、気持ちのいいスタートになった気がした。

(現在は舗装されているものの)堤防が400年の間に補修され踏み固められていったのだと思うと、ただの高台とは思えなくなる。
やはり、写真で見るのと現地で体感するのとでは、重みが変わってくる。

そしてここで見たかったものがもう一つ。
川沿いに配置された「聖牛」だ。


画像3

川の流れを変え勢いを抑制する、信玄考案の建造物。
フォルムはまるで映画で見る投石器のようだ。
穏やかな川には似つかわしくない気がするが、これが400年前、必要とされていたのだと思うと、当時の氾濫の破壊力はすさまじいものだったのだろう。

近づいてみると、根元から頂点までが約5mとかなり大きい。
頂点にまで水かさが増すことが想定されていたのだろうか。
当時の苦労が忍ばれる。

川から離れたところに「聖牛」の解説板があり、みんなが近づいて読んでいる間に、伊東潤にこんな質問をしてみた。
「勝頼が武田家を存続させていたら、どんなものを残せたでしょうか?」

これに対する解答は明確だった。
「勝頼は残せなかったと思う。功績を辿っていくと、内を固めるよりも外へ攻める人。例え一時の危機を乗り切ったとしても、家の存続は難しかったと僕は思っている。勝頼が武田家(信玄)の跡を継いだことが、武田家滅亡に直結したのではないかな。勝頼以外の人なら、あるいは・・・」

ちょっとその後を聞いてみたかったが、言葉は続かなかった。
言ってはみたものの、勝頼以外の人間が武田家を継ぐ。そんな選択肢の難しさに思いを巡らせたのかもしれない。

武田勝頼に対する、残酷なまでの低評価は、デビュー作の実質の主役に対する言葉としては、いささか冷たい気もしたが、勝頼の人物像を徹底的に分析して作り上げたと語るご本人だからこそのコメントとも言える。

そして、その評価が間違いではないことを、次の新府城跡で実感することになる。

2) 残したものと、残せなかったもの (後編)

画像4

新府城跡

おそらく一人では、行くことはなかっただろう。
信玄堤からバスで10分ほど。たどりついたのは、小高い山手前の駐車場。
堀と土塁に覆われた城跡は新緑に包まれ、日差しを浴びてその雄大さを見せていた。
 
ただ、鮮やかな色合いとは裏腹に、次第に太陽が気合を入れ始め、体感気温は次第に高まってきた。日焼けしそうな雰囲気だ。女性陣は日傘の準備を始めていた。


準備が整ったところで、堀と本城との一番狭い場所から“入城”。
木陰からの光を浴びながら山道を登っていき、新府城本丸跡を目指す。
 
途中では、縄張り(城の作り方)の足跡を見ることができた。
例えば馬出。
馬出とは、城の出入り口(虎口)の外側に設けられたスペース(曲輪)のこと。攻めてくる敵を入城前に食い止めるのが役目だ。

馬出はその家によって特色がある。
武田家は丸形の馬出(丸馬出)が設けられていることが多いが、新府城はそのさらに外側に堀を設けている。

これを三日月堀というのだが、丸馬出と三日月堀の組み合わせが現存しているのは全国でもごくわずか。
(しかも武田家築城時の姿で残っているのはさらに少ない) 
他にも堀に突き出た出溝(みぞいだし)や、郭跡など、様々な縄張りが残っていた。

伊東潤曰く、新府城はこれまで培ってきた武田家流築城術の集大成といえるもの。学術的価値としても非常な貴重な存在だという。

意識せずに歩いていたらただの山登りになっていただろう。
伊東潤の解説に耳を傾けながら歩いていくと、周囲が開け、大きな公園のような土地が広がっていた。
 
正面には「新府城本丸跡の」の碑。
本丸跡に到着したようだ。

画像5


 
周囲を見渡すと、起伏の少ない平地になっており、現在は神社とお墓、舞台があるのみ。建物がないせいか、とても広大に感じる。

記載された広さを確認すると、南北600メートル、東西550メートルと、城としてはかなりの敷地面積だ。
山城というと頂上の面積が狭い傾向があるが、新府城に関しては、その難点をクリアすることで、居住地としての利便も確保していたのかもしれない。

新府城周辺の地図を改めて確認。すると、川を利用した領国の広域経営を意識した、交通の要衝に位置していることが見えてくる。
これまでの土地選びとは明らかに違う、武田家の意思がそこにあった。


そして、難攻不落の城づくりと、広大な本丸。
もしかして、後世に残る名城になりえたのかもしれない。

だが、築城開始からわずか1年後の天正十年(1582)
家臣・木曽義昌の裏切りをきっかけに織田・徳川軍の攻勢が始まり事態は一変。
その時点で軍事・経済で圧倒的な差がついていた武田軍はなすすべもなく敗れ続ける。
追い詰められた勝頼は、再起を図ることを決断。

建築途中の新府城を焼いた。

『武田家滅亡』にて、伊東潤は勝頼の心情をこう描いている。

「結局、新府城は二ヶ月あまりしか使用されなかった。その無骨な構えとは裏腹な儚さに、勝頼は自らを見る思いがした」


父・信玄がその生涯をかけて築きあげた軍団や領土、そして自分が創り上げようとしたものが、あっという間に消えていく様を、勝頼の無能さが原因とみなした方は多いだろう。

近年大河ドラマなどで人物への印象が塗り替わり、再評価する流れがあるようだが、実績を消すことはできない。
 
新府城を焼いたこの年、武田家は滅ぶことになる。
勝頼は、功績を残すことも、武田家を次代へつなぐこともできなかったのだ。


と、偉そうに記述しているが、実は作者は途中で一団とはぐれてしまい、一部史跡を見ずに終わる、という失態をおかしたことを、自戒の念を込めて記載しておく(涙)


3) 勝頼が背負った、名族の血

画像6

武田八幡宮

趣のある門に歓声が上がる。
武田八幡宮へ続く階段の前に見える随神門(神社山門)。
瓦葺きの屋根と木造りの組み合わせが力強く格調高い。
楼門(二階建て。一階部分に屋根を持たない)建築として大変珍しいものだ、と伊東潤が解説してくれたが、その本人も感嘆するほどの色鮮やかだ。

本殿へ続く階段もきれいに整備されており、登るたびに厳かな気分になっていく。
途中開けたスペースがあり、屋根吹き替えに使われる檜を間近で見学することが出来たのも、貴重な瞬間だった(その日午後は吹き替えを見学できる機会があったとのことだが、我々が訪問したのは午前中のため見学はできなかった)

平安時代創建と言われる武田八幡宮は、武田氏(甲斐源氏)の氏神として、代々の武田氏から崇拝されてきた、神聖な場所。
特に、武田信虎(信玄の父)、そして信玄は本殿を再建することで、信仰の高さを内外に示した。

本殿は、再建から今日まで守り続けられ、国の重要文化財に指定されている。
 
その他にも山梨県指定文化財が数多くある中、石碑に参加者の目が吸い込まれる。
石碑には天正十(1582)年 勝頼夫人(『武田家滅亡』では桂)が戦勝を祈念し奉納した願文が彫られていた。


画像7

上半分に原文、下半分に読み下し文。
文章がひらがな(崩し字)と漢字(当て字)のため、解説なしに読むのは至難の業だが、筆調がどことなく力強い気がする。
媚びるのでも阿るのでもなく、夫人は、信じることと祈ることで、目の前に迫る脅威と戦おうとしていたのかもしれない。

だが、この願いは通じることはなかった。
願文奉納から程なくして、新府城放棄を宣言。
夫人は勝頼に付き従い、最期の刻を迎えることになる。

願文を奉納した時期に、武田家が崩れていく様をみた夫人の心情を、伊東潤はこう描いている。

「桂は女人であることをこれほど恨んだことはなかった」


関東・北条氏から勝頼に輿入れした夫人。物語当初から登場し、勝頼と武田家にその生涯を捧げる決意をした芯の強い女性として描かれている。
だからこそ、崩壊していく武田家と、苦悩する勝頼を憂うことしかできないことが無念でたまらなかったのだろう。
もしかしたら本家(北条家)で聞かされていた名門・甲斐武田家が墜ちていくことが、現実のこととして理解できなかったのかもしれない。

戦国時代の大名と言えば「下克上」から生まれた大名を連想される方が多いかもしれない。
身分の低い(家臣筋)武将が元々の領主(守護大名)を追い出して、その領土をわがものとしていった代表格としては斎藤道三、伊勢宗瑞(北条早雲)、宇喜多直家だろうか。

※近年の研究で上記の武将については、それまでと違う実態が明らかになりつつある。

戦国時代を代表する武将は「下克上」で古い体制を打ち壊し、新たな秩序をうちたてていったというイメージがつきもの。

ところがここに、例外がいくつか存在する。
元々の領主から、国土と権限を維持(もしくは発展)して、戦国大名へスライドすることができたパターンだ。

この例外の中に甲斐武田家は存在する。
武田八幡宮の歴史が、それを表している。
鎌倉時代以前から続く、源氏の名家。それが甲斐武田家なのだ。

それだけの歴史、そして偉大な父・信玄の跡を背負ったのが勝頼だった。
彼が背負ったものは、一人で背負える容量を超えていたのかもしれない。


4) 武田三代の地


画像8

お昼休みを挟んで、躑躅ヶ崎館(武田神社)へ。
新府城建設までは武田氏の居城として使われてきた、歴史ある場所だ。
そしてここでは、一つの出会いが待っていた。

日差しの照りつけが強くなってきた午後。
躑躅ヶ崎館跡へ入る橋の前に、光を反射して輝く甲冑の姿が。

※この日は今年(2019年)初の夏日を記録。後で確認したところ、甲府は30度近くまで上がっていた。

そう、躑躅ヶ崎館甲冑隊のみなさまだ。

このツアーはtwitterにて募集されていたのだが、それをたまたま見ていた甲冑隊の方が伊東潤の大ファンだったのだとか。
そして運営側に連絡をしてくれて、当日ツアーメンバーをご案内したい、と申し出てくれていたらしい。
そして時間を打ち合わせの上、橋の前で待っていてくれていたのだ。

遠目から見てもかっこいいが、近くで見るとさらにかっこいい。
熱い中、甲冑はさぞかし大変だろうと想像されるが、赤備え・頬当(顔面を防御するための面)を付けている方など、戦国武将ファンにはたまらない要素をそなえた、堂々たる武将ぶり。
(このあと、写真撮影会がしばらく続く)

画像9

そして甲冑隊のみなさまのご案内の元、躑躅ヶ崎館跡見学ツアーが始まった。
個人的に甲冑が動く際のカチャ、チャという音が大好きで、子供のように後ろをついていったのはここだけの話(笑)

躑躅ヶ崎館は現存しておらず、その跡に武田神社が作られている。つまり新しい神社なのだが、元々が“館”なので、違和感なく見ることができた。
土地自体は平地に見えるが、高さは多少ある気がする。そして背後には山々がそびえ立ち、北側からは攻めづらくなっているというところか。
(今回は訪れなかったが、北に「要害山城」があり、武田信玄はそこで生まれている)

このあと、東側の史跡から井戸(「姫の井戸」と言われ、延命長寿、万病退散のご利益があると言われている)を経由して、西側、北側とまわるのだが、甲冑隊(そして伊東潤)の解説で驚いたことが2つ。

1つめは徹底した防御施設としての作られ方。
堀の急角度ぶりや西北側出口の枡形虎口(狭い入り口と入った先の四角い密室エリアの組み合わせ。包囲殲滅して的を殲滅できる)、土塁、そして特定の入り口以外全て崖。
躑躅ヶ崎館は何度か拡張されていると言われているが、利便性より防御施設として、練りに練られた仕組みが随所にあり、館(曲輪)外はもちろん内側すらすんなり移動することができない。

武将の居住地や馬小屋は館の外に設置され、館の中は広さや有効活用より守ることに特化。
(井戸があるということは水の確保もしやすい体制だったに違いない)
まさしく、守護大名から戦国大名へ、蹴落とされることなくシフトした武田家の武の象徴と言えるかもしれない。

だがその一方で、滅びたものの現実も見せられることになった。
それが2つめ。武田家時代の遺構がほとんど残っていないということだ。

例えば東側大手門跡外側にある「大手門東遺構公園」。
発掘調査により、大手門の前に武田氏時代の三日月堀跡が発見されたのだが、それは下層から。上層にあった(つまり発掘調査で最初に出てきた)のは「大手石塁」。武田氏滅亡後、領土を管理していた豊臣秀吉の家臣によって築かれたものらしい。
つまり、武田氏遺構は、豊臣時代に徹底的に破壊され、埋められているのだ。
豊臣家(管理していた武将)は、武田氏そのものの記憶をこの世から消してしまいたかったのだろうか。

甲冑隊が紹介してくれた石垣にも、その痕跡が微かに残っていた。
門の左右に積み上げられた石垣。これも今見えているものは豊臣時代に作られたもの。武田氏時代のものはその下にあるとのことだ。
(西曲輪の石垣のうち、最も地面に近い石のなかに、武田氏時代のものと思われるものが見えるところがある。普通に見ただけではまずわからないので、興味ある方は現地で甲冑隊にお声がけいただきたい)
また、西曲輪から北側を見ると、なんと天守台跡が見られる。
(そこへ向かう道は立入禁止となっていて、木々の隙間から天守台の石垣がかろうじて見られる)
これも、家康時代のものらしい。

滅ぼされるというのは、目に見えるものを葬り去られることなんだ、と内心愕然とした。

しかし、「大手門東遺構公園」を初め、躑躅ヶ崎館跡及び周辺では今なお発掘調査が続いており、これからも新たな発見が生まれてくる可能性を秘めている。
そしてそれが、ここに息づいていた武田家の在りし姿に気付くきっかけになる。

今あるものの認識が変わる日が来るかもしれない。
それもまた、歴史を知る楽しみだ。

ちなみに、熱い中最後までご案内いただいた甲冑隊のみなさまのリクエストにより、伊東潤と甲冑隊の撮影会が行われた。


画像10


しかも、甲冑隊のみなさまは御自身のお好きな伊東潤作品を持参してくださって、それらと一緒に撮りたいとのこと。
甲冑が本を持っているという独特の絵面もさることながら、武田家ゆかりの場所で、『武田家滅亡』(しかも単行本!)と一緒に撮影するという、とてもシュールな光景。
こちらが指定したわけでもないのだが、何だか非常に申し訳ない気持ちになる。
しかし、御本人たちは(顔が見えなかったけれど)とても楽しそうに振る舞ってくれたことが強く印象に残った。甲冑隊の地元愛・武田愛が伝わってきた2時間だった。


前述したとおり、城完成前に、武田家は滅びへの日へ進んでいく。
結果だけみれば、新府城築城に費やした費用や動員された人手は、武田家を疲弊させただけで終わってしまった。
そして、歴史ある躑躅ヶ崎館はこの世から姿を消し、遺構は地下奥深くに埋められていったことになる。

物語では新府城を焼いた後、勝頼が躑躅ヶ崎館(跡)を通過するシーンを、こう描いている。

「勝頼は、無残のうち打ち毀された躑躅ヶ崎館を見ないように通り過ぎようとした」


5) 勝頼と呪われた一族


画像11

勝沼氏館跡

1日目の最後の場所。
その場所から見下ろすと、甲府の街が見下ろせた。
山梨県甲州市武田家一門衆・勝沼氏の館跡だ。

断崖上にある館の周囲には堀があるのだが相当の急角度だ。本日見た堀の中で最も急かもしれない。

真上から見るとほぼ90度、それほど高さはないとはいえ、落下したら、と思うとぞっとする。
大小の戦いが突発的に起きることを想定した、防御力の厚い作りだったのかもしれない。

元々山梨県立ワインセンターの建設候補地だったことから、1971年から5年掛けて発掘調査を行ったところ、大規模な館跡が発見された。
調査してみると、多くの遺物が発掘され、史跡自体も非常に貴重だということがわかり、建設は中止。
現在は国の史跡公園として保存公開されているとのことだ。
確かに、草がきれいに刈ってあることで、区画がわかりやすく見られるようになっている。
建物がなく、区画だけなので地味ではあるが、当時の一領主の生活を知ることが出来るのは貴重だというのがわかる。

堀を張り巡らせた作りから、躑躅ヶ崎館のような戦時特化施設のような印象だったのだが、区画の内容を見ていくと、そうでもなさそうだ。
数えてみると、主屋、御座所、会所、番所など領主の建物があり、その外側に台所、工房、厩、井戸跡、水堀跡など、生活や武具製造に必要な建物が(低い堀で区分けされていたが)館の側にあったことがわかる。
面積が狭いこともあるが、領主と領民(職人?)との距離が近い生活が成立していたことになる。

そう考えると、武田本家を支える役割を担いながら、家としての独立共生を目指した、狭くても密なコミュニティがあったのかもしれない。

勝沼氏は勝頼の祖父・信虎の弟信友がこの館を拠点として、東からの脅威に対していたと言われている。
だが、信友は戦死。その子息は武田信玄から謀反の疑いをかけられ殺害。
ただ、娘は尼となり、大善寺へ。

後に、勝頼と運命の出会いを果たすことになる。


戦国時代、肉親や家族縁者とどういう関係性を築くか。
歴代の当主はこのことに頭を悩ませていたに違いない。
今と異なり、彼ら(彼女ら)は最大の理解者ではなく、最大の敵となることが多かったからだ。

後に勝頼最大の敵となる織田信長も、一門衆や弟との戦いに、多くの時間を費やした。
父・信玄のライバル・上杉謙信も兄との家督継承争いを制して、当主になっている。

当の信玄自体、妹の嫁ぎ先(諏訪家)を打ち破り領土を手にした。
後年、武田家今後の方向性を巡って長男・義信と対立。最後は義信を自害に追い込んで家を守らなければならなかった。
そして、勝沼氏の謀反疑いだ。

戦国最強とうたわれた武田軍団は、身内との争いを内に秘めて作られたものだった。
そして、信玄の滅ぼした諏訪家の血を引いて生まれた男子は、義信の死によって武田家を背負い、そして、父が滅ぼした親族と再会する。

男子の名前は、武田勝頼。


そう、彼はまるで、信玄の暗部を全て背負ったかのような生い立ちだったのだ。

信玄堤で伊東潤が語った「勝頼が武田家(信玄)の跡を継いだことが、武田家滅亡に直結したのではないかな」という言葉は、勝頼の力量云々だけではなかったのかもしれない。
父・信玄が武田家を拡張させるために侵した、数多の悲劇によって生まれた子が、武田家を継いだ。
その現実そのものが、終わりへの一歩だった、ということではないか。
ひんやりした空気をはらんだ風が吹き始めた、高台の上で私はそんなことを考えていた。


〈後編 二日目に続く〉


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?