『ケアと身体性』に至るまで

15年目の去年をひとつの区切りとして、2019年からAAPAで行う創作は自分ひとり(上本竜平)の活動になった。そして2月に『ケアと身体性』と題した企画を始めたので、そこに至るまでのことを書こうと思う。

「ダンス」という言葉

AAPAではこれまで、自分のからだや行為のなかにある、説明し難いものへの興味を「ダンス(あるいはコンテンポラリーダンス)」という言葉を使って語ってきた。

2011年に鳥取・福岡・伊丹・東京をツアーした『終わりの予兆』を創作したときも、踊りを上演することで、自身のからだや行為の認識が変わっていくことに興味があった。その変化は、上演のなかだけで生まれるものではない。自分の興味を「ダンス」という言葉だけで表すことの限界を、感じるようになっていた。

松戸での5年

横浜でのAAPAの活動が終わり、2013年に北千住にスタジオをオープンしたとき、自分が育った東京近郊のどこかでまた、スタジオでのダンスクラスとは別の形で、自分の興味を紹介したいと考えていた。
そして2014年に、都心からMAD City(千葉県松戸市)に引越してきた。

それから5年ほど、12歳まで今のシンガポールで育った祖父を題材にした『短い旅行記』と、松戸駅の東口/西口と自分たち夫婦の生活について話す『となりとのちがい』という2つの作品を、MAD City に紹介してもらった松戸の物件で創作し、各地で再演を繰り返してきた。
そのなかで少しずつ、上演から「ダンス」の要素を落とし、AAPAの活動を始めた2004年からの数年間のように、あらためて舞台を上演する「場所」に重きを置いていった。上演を通じて生まれてくる変化を、形にして見せる場所を持つことが目標だった。

そして2018年4月に『となりとのちがい vol.4』を上演した「松戸駅東口の一軒家」に、同じ東口のマンションから引っ越すことを決め、5月から暮らし始めた。このときに、自分の松戸での活動は「ダンス」から「場所(としての家)」に移ったと思っていたが、ここからが簡単ではなかった。

その後、「ダンス」という言葉だけでは届かないところに伝えていく方法についてMAD City と議論を重ねたが、答えがでないまま3か月が過ぎ、夏が終わってしまった。

ダンスから離れようとしても、離れられない。2人で暮らすには大きすぎる家は「11月に退去する」と伝え、9月末に中国に行った。

中国での気づき

中国ではコンタクト・インプロビゼーション(CI)のフェスティバルでワークショップを行った。これまでも何度か海外でワークショップをしてきたが、複数の国からCIの講師が集まり、一般から参加者を募る形で様々なワークショップが行われる場に参加するのは、今回の中国でのCIフェス(自分たちがワークショップを行ったのは北京と上海)が初めてだった。

「CI」は即興で踊るダンスの形式のひとつだが、こちらのリンク先の解説にもある通り、プロとアマチュアあるいは巧拙の区別を設けることなく参加できる平等主義と、ともに踊る相手とのからだの接触とバランスから生じる感覚に意識を向けることが重視されている。そのためダンス経験がない人でも参加しやすい。

このことは中国のCIフェスでも同じだったが、それ以上に、「ダンス」がより広い意味で捉えられているように感じたことが、印象に残った。参加者はたしかに「踊る」のだが、「踊る」こと自体が目的ではない内容(自分が行った『他者と出会う』と題したワークショップ)に「ドラマセラピーのようだった」という感想を残してくれた人もいた。

ここでは「ダンス」「ドラマ(演劇)」「セラピー」というそれぞれの言葉から自分が感じる『境界(boundary)』はないのかもしれない。単一の言語が共有され、細かな違いが明確にされている日本とは異なる環境が、そうさせているように感じた。

場所から「ひとりの人」へ

自分はこれまで、AAPAの活動を国内の「東京近郊」を拠点として行うことにこだわってきた。ネットによって距離が縮まったように感じる「遠く離れた場所」とのつながりは、「今ここ」のからだや場所の感覚に左右される。そう考え、まずは自分が育った東京近郊という土地に関わることを、第一に目指してきた。
それは、それぞれの場所の「細かなちがい」に気づき「深く/確かな」ものを探そうとする行為であると同時に、「ダンス」をより具体的に選り分けて語ろうとすることの限界を感じた、理由でもある。

そのなかで中国のCIフェスでの経験は、「ダンス」「ドラマ(演劇)」「セラピー」などがともに共有される、より広く/普遍的な視点の可能性を感じさせてくれた。
それは「海外では広く/普遍的な視点をもってCIが語られている」ということ以上に(それも事実だが)もっと単純に、自分が「日本では細分化し過ぎている」ことに気づいた。

つまり、もっと「大きな言葉」で話せばいい。

ダンスは「場所」がないと始まらない、と考えるだけでは近すぎた。
「ひとりの人 (person)」がいないと始まらない、と感じるまで離れること。
自分のからだや行為のなかにある、説明し難いものへの興味を、ダンスでも場所でもある「人」の話として伝えること。

この広く/普遍的な視点を持って語るのに、海外で活動することは必須ではない。東京近郊にも人が暮らしている。松戸で活動することも、もちろん可能だ。

中国から帰国後、退去届を取り消して欲しいという無理なお願いをMAD City に受け入れてもらい、再び松戸の一軒家での生活が始まった。

CIに関わる「人」の特性には、国を越えて交流する「国際性」や、国内でもサービス化が始まっている「多拠点居住」などがある。だが何より一番の特性は、他者のからだに「触れる/触れられる」ことだと感じる。なのでそのことと強く関わる『ケア』と『身体性』という言葉を、CIを通じてあらためて検討することに決めた。

『ケア』は、あまりに広すぎる言葉で、これまで自分が考えてこなかったことだ。その広さを『身体性』というこれまた広すぎる言葉とあわせて紐解くことで、自分の興味をより深く、普遍的なものとつなげていきたい。

「ケア」「身体性」「ダンス」を分けずに、ひとつとして語ることを。
ひさしぶりに、夢みたいなことを言うことにした。

そして年が明け、2019年2月にAAPA『ケアと身体性』vol.1として「これからの『家族』」をテーマに、ゲストと参加者とともに対話を重ねながら「触れる/触れられる」というCIの特性を紹介するイベントを行った。

今回のnoteは、3月にタイの島で開催されたCIフェスティバルでワークショップを行い、松戸に帰ったところで書いている。
タイでの経験も、ここで書いたことをさらに実感として深めてくれた。
そのことはまたあらためて、続きとして書きたいと思う。

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