自分にとっての「現実」は多くの人にとって「現実」ではない。

自分にとっての「現実」は多くの人にとって「現実」ではない。
そして世間の「現実」も、自分にとっては「現実」でない場合も多い。


通勤中に募金活動をしている団体に遭遇することがある。
にこにこと笑いながら大きな声を張りあげ、せかせかと職場へ向かう人たちに募金を呼びかけている光景を、横目に見ながら素通りしていく多くの人。

なぜ立ち止まって話をきき、募金をしないのだろうと考えると、
それは人それぞれの「現実」のズレが原因であると思う。

『「現実」は人それぞれにあって、自分の感情や行動に影響を与えるものだ』と何かの本で読んだ。この文章を読んだ時、おお、なるほどと思った。

募金活動をしている人たちにとっては、内容を伝えて募金を集めることこそが現実だ。でも通勤中の人にとっては募金活動の内容よりも、早く職場に着いて仕事を始めることが現実なのだ。気分良く通勤するための音楽が現実なのだ。ここに「現実」のズレが生じているので、素通りされてしまう。

募金とは関係ないが、テレビで報道されているアメリカの選挙にも、日本の国会で行われていることにもどこか他人事のように思ってしまってならない。情けないと言われてしまいそうだが、そう思ってしまったのだから仕方がない。それは物事から自分の生活への繋がりが読み取れないから。

物事と自分との繋がりを実感しない限りは、自分にとっての「現実」とはなり得ないのではないか。「現実」となり得なければ、そこに意識は向かないし、行動は起こらないのではないか。

人に動いてもらうためには、その人達に「現実」であると思ってもらわなければいけないのか。
なるほど、募金活動は難しい。違う目的で歩いている人たちに向かって、数秒で募金することを「現実」であると思ってもらわなくてはいけないのだから。いや、ほとんどのビジネスもそうかもしれない。

大学2年生の時に、駅前でただただ声を張りあげていた自分に教えてあげたい。なんかいろいろと方法あるっぽいぞと。


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西川 直哉

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