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 毗曇の乱が大化改新の原話である現実と福田芳之助の指摘  阿部 学

序(要約)
 『紀』編纂は、六八一年、天武天皇が川島皇子以下一二人に命じた「帝紀」及び「上古の諸事」資料から始まった時代から、藤原不比等による七二〇年成立とするのが一般的である。ここでは、その過程で毗曇の乱にヒントを得て「大化の改新」の文飾・創作編纂が行われたと仮定し、その創作について論じる。
   七世紀の後半、百済、高句麗、そして、倭国までもが泰山封禅(六六六)という屈辱を味わったが、その後の日本国も、東アジア情勢は油断ならなかった。『紀』から言及がないが、とくに唐からの侵掠への恐怖や孤島を他国から守る必死な姿勢を感じられ、当時、(新生)日本国が、倭国と別種の由緒正しい国家であると宣言する必要が生じていたと推測できる。また、百濟滅亡後、圧倒的な統一新羅の影響も『紀』には書かれていない。しかし、八世紀からの敵視政策の記述は現れる。新羅に関わり、新旧朝廷・政権の確執も引き起こしていたと思える。
  さて、大正時代の福田氏が著作『新羅史』に於いて、「毗曇の乱の経緯や登場人物が、蘇我入鹿を誅殺した変のそれと頗る同じ」との指摘をしている。大正時代は、天皇の神格化を否定することへの畏怖が浸透した。この発表をした福田氏の学者としての真摯さが窺える。ただ、本人は、この先の研究を行わなかったようだ。事情は不明だが想像の域を出ることはない。そこで、第一章では、福田氏の見解を述べる。第二章で、本論となる乙巳の変から大化改新、鎌足と中大兄皇子と金庾信と金春秋の相似・対比論を展開して述べる。尚、『紀』、『新羅史』を本文通りに変換できなかった文字等は太字にした。(尚、表中の太字は他の目的。) 

第一章 福田芳之助『新羅史』の考察からから抜粋
 現代訳毗曇の乱(一九一頁)善徳王十六年(六百四十七年)正月、新羅の都の宰相に相当する伊湌(真骨二番目)の毗曇、その仲間の廉宗等と共に、女性君主では良く(国政を)治める能力がないと唱えて、女王を廃しようと企てた。(中略)かくして、全ての将兵を督励し、奮って賊軍を襲撃した。毗曇らは敗走したので、これを追って斬り殺し、九族を滅ぼした。まさしく、日本齊明女帝の時、大臣蘇我入鹿を誅(殺)した時から二年の後のことである。事実は頗る相似している。春秋は、中大兄皇子であり、庾信は、藤原鎌足であろうか。以下、(二五六頁)彼(庾信)は、いつも誠を心情として、君子も(部下の)臣も(恰も)水と魚・肝臓と胆嚢が相照らすように、庾信といえども春秋がいなければだめだった。ふたりが互いに影響し合って初めて、成功をすると謂うべき、やはり、天智と鎌足のように。初め鎌足、蘇我氏ののさばりを心配、愁い、ひそかに悪をただすとの志を懐くと中大兄皇子に心をまかせ、法興寺、槻の樹の下での蹴鞠の時に遇い、皇子の靴が毬と一緒に脱げたのを見て走り寄ってこれを拾い差し出して親しく交わることになった。(中略)庾信は、また、王の子孫の春秋と、邸宅前で蹴鞠の戯れを行い、故意に(春秋の)着物を裂き、家に引き入れ(寄ってもらい)、其れで婚姻を結ぶきっかけを作る。これらのことは、ひどく似ていて、君子も(部下の)臣も(恰も)水と魚の(関係のように)ように偶然ではないことを知ることだ。中大兄、鎌足と(計略を)謀り大臣蘇我入鹿を誅殺するといなや皇極の天皇位を孝徳に譲り、中大兄を皇太子にした。五年すると孝徳は崩御(死亡)し、中大兄が当然立つべきなのを、再び皇極女帝を擁して、重祚させて、自分は重要な(天皇の)政務の守りにあたり政事を行った。庾信等は、大臣毗曇の乱を平定し、ついで善徳女主が死んで、王系の近親で重要さと人望でいえば、春秋は、最も後継者に擬えるべき位置にありながら、自ら其れを避け、真徳女主を立て、其の身を自ら、内外の重要な政務に参加した。両者は、じっと堪え忍んでかくのごとくして、遂に王位に即位するや、一つ、空前の國體改革を行い、遂行し、一つ三国統一の大業成就をしてやった。それから、鎌足と庾信とが、この間(事変)における参画の功は、これを歴史書に残しても遜色は無い。鎌足が死ぬや天智はその邸宅に臨んで有難い詔を下した。揃って国家に尽くした老臣という體を得たと謂うべき。
 以上、福田氏の主張の主要部文を現代語に要約した結果、この二つの事件・文章の構造が頗る似ていると示されていた。

第二章、詳細の検討
 両者を新たに詳細に検討し、『新羅本記』『遺』『皇極紀』の記述から関係記事を表一(ア~カ)にまとめると、『紀』の文飾の様子が浮かび出た。特に、結婚の場面では、美談とまではいかないが、庾信が意図して妹を春秋公との婚姻に結びつけた新羅史よりも『紀』は、作為のないものに文飾されている。
ア、 蹴鞠での出会いは共通だが、三国遺事では、故意に春秋公の上衣の結び紐を踏んで裂いてしまった。一方、『紀』偶然、たまたま出会い、皮靴を拾って跪き恭しく差し出したとした。(無心な鎌子の忠誠を表現した。)『紀』偶預中大兄於法興寺槻樹下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脫落、取置掌中、前跪恭奉。 『遺事』故踏春秋之裙。裂其襟紐曰 
イ、中大兄と春秋公の婚姻の場面、夢を売った長女は嫁がず、夢を買った妹と婚姻。共通している姉妹による結婚の経緯だが『紀』では、長女が盗まれたためとした。庾新伝等でも長女・末妹という関係。
『紀』蘇我倉山田痲呂長女爲妃、而成婚姻之昵(中略)而長女所期之夜被盗偷於族。由是倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲少女怪父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由。少女曰、願勿憂爲。以我奉
『遺事』庾信命阿海奉針。海曰。豈以細事輕貴公子乎。乃命阿之公知庾信之意遂幸之。自後數數來往。庾信知其有娠。
ウ、女王の危機の場面。蘇我入鹿が皇族を滅し、天皇位(宝姫女王)を絶とうとした。一方、毗曇や廉宗は女王では良く国を治めることができないといって兵を挙げた。女王死亡、諡をして善徳王。(羅)
『紀』中大兄伏地奏曰、鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作乎(蘇我入鹿臣更名鞍作)
『史記卷第五』一六年春正月。毗曇廉宗等謂女主不能善理。因謀叛舉兵。八日王薨。諡曰善徳。
エ、「乙巳の変」により、蘇我入鹿等が誅殺され、他は(東漢一族)逃げ去った。紀)金庾信等により毗曇・廉宗らの乱は失敗し、九族が殺された。(皆殺しになった。新羅)
『紀』然則爲誰空戦、盡被刑乎、言畢解劒投弓、捨此而去。
『史記列伝金庾信伝上』於是督諸將卒奮撃之。毗曇等敗走。斬之。夷九族。
 表2の二つの資料を並べて比較すると、新羅史を基に類似した語句を使用して文飾したような雰囲気が窺える。どちらもクーデター鎮圧後の王の交代時(六四五年と六四七年のことで、似たような内容だが、『紀』は、庾信のものに文飾が施されてあると判断できる。先の表一も同様である。「帝・皇・君・天・」、「君臣の序」、「妖・鬼』等の語を使用して、新羅史よりも内容の厚みを増している。また,四年六月一二日条にも「中大兄は、将軍巨勢徳陀臣をして、天地が開闢した初めから、君臣の別があったことを、党に説かせ、どう赴むかをわからせようとした」との文がある。 
オ、四年六月庚戌(十四 日)宝姫〔皇極天皇〕は、存命であったが、なぜか軽皇子(孝徳)に位を譲った。中大兄皇子は、孝徳天皇死後即位せず斉明天皇を擁立し,その死後、天皇位(天智)についた。紀)乱の際に女王は死亡し、真徳女王即位する。金春秋は真徳女王の後に即位。羅)
『紀』天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌、授爾禪位。策曰咨爾輕皇子、云々。天萬豐日天皇、後五年十月崩、明年、皇祖母卽天皇位。七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
『史記列伝金庾信伝上』十六年春正月八日。王薨。諡曰善徳。(中略)真徳王、立。名勝曼。八年春三月。王薨。諡曰眞徳。(中略)太宗武烈王、立。諱春秋。 
カ、六四五年日本最初の独自元号『大化元年』改新により律令制の国づくりが始まった。一方、新羅最後の独自年号『太和元年』とし、律令制の国づくりが始まった。新羅の四階層制の基本となった。
『紀』天豐財重足姫天皇四年(六月十九日)乙卯(*中略)改天豐財重足姫天皇四年、爲大化元年。
孝徳天皇存命中(六五〇年)大化から白雉に改元、唐の古典から縁起の良い『白雉』に改元。その後、孝徳崩御。いっぽう、真徳存命中、『太和』を廃し(六五〇年)唐年号永徽に改元。その後、真徳死亡(六五四年)
 ここまでの比較で、二つの「事件」と「王権の交代」の類似点と『紀』撰述者等の文飾による差別化の様子が窺え、乙巳の変から大化の改新、その間の人物〔天皇〕は、新羅史を参考にした創作で選上する際の文飾であると判断しても良い。 

第三章 鎌足の死の場面と庾信卒の場面の共通の構造と文言。
 金庾信が鎌足として創作されたもう一つの記述、六六九年『天智紀』鎌足の死の場面が、六七三年『金庾信伝』、金庾信卒の記録。両者の共通性を感じる部分がある。
(一)不吉なことが起こった後に死が近寄る状況を示す
・鎌足の家に落電→病患〔鎌足の憔〕悴ぶりが極めてひどかった。
・春に妖星が現れ地震。(守護兵が去った)福が尽きる→私は死ぬ
(二)病の床を王が親しく慰問したこと
・天皇は、藤原内大臣の家に幸(行)して、親しく病患を見舞った。 
・病の床に伏した。大王が親しく、〔病床に〕慰問した。
(三)愚か、不敏、国にもはや何の勤めもしない
・臣は全く不敏で、いまさら何を申しましょう。…生きて軍国に何のつとめもしませんでした。死んでさらに何を重ねてなやませましょうといった。
・わたしは愚かで不肖なものです。どうして国家に利益をもたらすことができましょう。
(四)共通語がある。『私第に薨した』
・十六日、藤原内大臣が薨じた。(日本世記はいう、内大臣は、年五〇で私第に薨じた。
・同年]秋七月一日になって、私弟(邸)の表御殿で薨去した。享年は、七九歳であった。(邸は、翻訳者)薨于私第之正寢『金庾信伝』

 あとがき
 乙巳の変の記事には、おかしな点がある。それは、新羅史で毗曇、廉宗の記述が少ないのに対し、同じ悪役の蘇我氏の記述が非常に多い。物語の量を増やした。また、蘇我氏の挿入が、どの時期・タイミングだったかが疑問として残る。八世紀初頭から始まる対蝦夷政策の影響もあって「入鹿と蝦夷」の悪役としての登場なのかもである。そして、『乙巳の変から大化の改新』、律令制の国づくりが、新羅よりも二年早く始まったことにしている。七世紀末は、親新羅(新羅を通じて新羅の階級制・唐の暦法等を導入など)だったが、八世紀以降、両国の関係が悪化、日本国の先進制を示したかったからかもしれない。
参考文献
新羅史 ・第一章 福田芳之助『新羅史』の考察からから抜粋
毗曇の乱(一九一頁)吉川半七一九〇四
三国史記一(新羅)・四(列伝)井上秀雄・鄭 早苗訳注
日本書紀下 井上光貞監訳中央公論社
原本現代訳日本書紀(下) 山田宗睦訳巻二四~二五 

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