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加藤純一とマジ宗教を比較してみた

はいどうも今日はあべしんです。皆さんは、加藤純一というコンテンツが宗教じみていると言われてる話は聞いたことがあるでしょうか。

既にこうした切り抜きが上がっているように、「加藤純一は宗教性が高い」という話は結構有名です。今日はその話について、ガチの宗教学なんかも取り入れながら考察していこうと思います。


宗教性が高いって何

宗教性が高いと言っても、何となくイメージは沸くと思いますが、結局それってどういう事?って皆さん思いますよね。なので、できるだけわかりやすく説明してみようと思います。

まず、加藤純一の視聴者が宗教じみている要素として、「視聴者の忠誠度が高い」という事があります。

一般的なYoutubeLiveでは、例え登録者が百万人以上いようとも同時接続で1万人を超えるのはなかなか難しかったりします。 しかし加藤純一はひとたび配信すれば、平均4~5万人は当たり前。

多いときは10万人を超えることも。しかもそれが数時間と続くわけですから、1人1人の視聴者が、加藤純一に費やす時間が恐ろしく長いと言えます。

2つ目に、宗教染みているのは「視聴者の依存度が高い」という事です。加藤純一は、雑談配信等でみんなが言わないような本音を思う存分ぶちまけます。空気など全く読まず、思ったことをそのまま言うのが加藤純一の魅力だったりします。

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空気を読むという行為は、集団を維持するうえで非常に重要な事です。KYという言葉が流行語になるくらい、日本では「空気を読む」という事が何よりも重視されますよね。

しかしあまりにそれが行き過ぎると、時に空気に合わせて自分の気持ちを犠牲にしないといけない事もあります。ブラック企業など、厳しい社会で空気を読みすぎて鬱になって、そのまま病んで最悪自殺してしまうという流れは、日本でも社会問題になるくらい深刻な問題です。


加藤純一の配信に集まってくるのは、無職とかニートとか障害者とか、日常において空気が読めなかった社会の鼻つまみ者が多数います。懺悔配信とか、障害者マイクラとか、はたまたその他相談枠でも、大勢の社会不適合者からメールが寄せられたりします。

それはやっぱり、加藤純一と言うコミュニティが、空気も読まずに自分たちを受け入れてくれるという事が大きいでしょう。加藤純一は、そんな人たちを全く拒まずネタにして受け入れてしまいます。

弱った人たちの前に、突然現れたカリスマ的存在という訳です。傍から見て「崇拝だ」と思われるほどのめり込んでしまうのも、何となくうなずける部分があるのではないでしょうか。


マジ宗教と徹底比較

さて、加藤純一が「宗教っぽい」という事はなんとなくでも伝わったとは思いますが、果たして本物の宗教はどうなっているのでしょうか。今回は、加藤純一に比較的似ていると思われる「浄土宗」と比較してみましょう。

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浄土宗とは、鎌倉仏教のうちの一つで、1175年から開宗された宗教です。「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」というフレーズを聞いたことはないでしょうか。

この浄土宗の神様は、「阿弥陀仏」という仏様で、「神の名前=南無阿弥陀仏という念仏を唱えて極楽浄土(天国)へ産まれゆくことを願う」という教えの宗教です。

他の宗教なら、滝行したり、その他厳しい修行を受けて初めて救われるというものが多いです。

しかし、浄土宗はいたってシンプル。どこにいても南無阿弥陀仏を唱えることが一番大切と言います。

浄土宗が生まれるまでは、宗教とは様々な教養などが必要となる貴族のための物でしたが、このシンプルな教えは瞬く間に一般大衆へと広がっていきました。

今より800年近く昔の事ですから、当時は衣食住の確保さえままならない事も多々あったはずです。

日々の生活が苦しくて、何を信じて生きていけばわからない人々も大勢いたでしょう。そんな人々の前に現れたのが南無阿弥陀仏という事です。

どんな理不尽に見舞われても、南無阿弥陀仏さえ信じていれば救われる。多くの人の心の支えになった事は間違いないでしょう。

救われない人々の前に現れたヒーロー。神と一配信者、全然違う存在のように見えて、実は似ているところがあるんですね。


教えの中身も似ていた件

さて、その在り方が似ていた加藤純一と浄土宗ですが、実は言ってることの中身も似ていたりします。(※ここからは本を少し読んだだけの個人的解釈です。間違ってたらごめんなさい)

実は、浄土宗とは「南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる」という宗教ではありません。

南無阿弥陀仏と唱えるだけでよいのだったら、悪人が犯罪を行いながら「でも俺南無阿弥陀仏って唱えてるからオッケーw」ってなってしまいますよね。

そんなもん都合のいい言い訳でしかありません。実際に浄土宗が主流の頃は、南無阿弥陀仏を言い訳にした野盗が流行ったとかなんとか。今も昔も人の考えることは一緒です。

では、本当の「南無阿弥陀仏」の意味とは何でしょうか。それは、すべての事をありのまま受け入れるという事です。

皆さんの人生がうまくいかなかったとき、嫌だなと思ったり、色々不安になって悩んだりする事って多々ありますよね。浄土宗ではそれを、「自分の欲望がもたらしたもの」と解釈します。


ちょっとよくわからないので、具体例を出してみます。皆さんは、イチローに嫉妬したことはあるでしょうか。

もしかしたら嫉妬している方もいるかもしれませんが、ほとんどの方はそんなことないと思います。では、自分の会社の同僚とか、部活の同輩とかが成功していたらどうでしょう。

嫉妬はいけない事だと思いつつも、やきもちを焼いてしまう事もありますよね。同じく「他者の成功」でも、自分と近い存在で、もしかしたら自分も成功できたかもなんて邪念が少しでも混ざると、人は嫉妬を抱いてしまうものです。

でも、本当にやるべきことは、他者の成功を嫉妬するのではなく、尊重して自分の励みにするという事ですよね。

いちいち嫉妬にとらわれてしまっていたら、自分のやるべきことを見失ってしまいます。

浄土宗では、こうした自分の身に降りかかるすべての出来事を、全て「阿弥陀仏が起こしたこと」として考えます。

阿弥陀仏は、全ての幸福を願っている神様です。そのため、こうした嫌な出来事も「本当は阿弥陀仏が自分のために起こした試練なのだ」と感謝することが出来ます。

逆に良いことが起こっても「これは阿弥陀仏の力によるものなので、自分だけのおかげではない」と思えば、調子に乗ることを防ぐこともできます。

だからこそ、何が起こっても南無(心からお頼みします、感謝しますの意味)、阿弥陀仏と唱えて、神に感謝しなさいと言う道を示しているのが浄土宗の教えという事になります。

すべては神の行いと思えば、自分の悩み等の欲望はしょうもない小さなことだと認識し、ありのまま起こったことを受け入れられるようになります。


さて、ではこの教えと加藤純一の何が似ているのでしょうか。

それは、「ありのままを受け入れろ」というメッセージそのものです。

加藤純一は神でも何でもない唯の36歳のおじさんですが、色々な方法で僕たちにありのままの受け入れ方を教えてくれます。例えば、

このように「顔がブサイクで彼女が出来ません」と悩んでいれば、笑い飛ばして「別にブサイクでも彼女はできるぞ」と一言アドバイスをくれます。

この視聴者に必要な事は、顔がブサイクと悩むことではなく、顔がブサイクな事を受け入れて自分を磨く事だったのです。
さらに、本当に同情してしまうような此方の、

「脳梗塞」 で脳梗塞のせいで彼女に振られたという悩みに対し、「お前のせいじゃなくて彼女が悪い」と彼女がいなくなったというありのままの姿を受け入れる手助けをしているように見えます。

これは一部ですが、他のお悩み相談でも同じように行われています。

浄土宗では、「神の前では悩みはちっぽけだ」という事で現実との向き合い方を教えてくれますが、加藤純一は「いい事言うおじさんから見たお前の悩みはちっぽけだ」という事で現実との向き合い方を教えてくれているような気がします。

ガチ宗教と似ている部分があるんだから、加藤純一は宗教っぽいと言われても仕方ない事のような気もしてきますね。

また人生の深みが増しました。ありがとうございます。


いつもありがとうございます。