言霊の咲きはふ国

言葉は、宇宙の融通無碍なエネルギーが、私たちの意識に届いた波打ち際である。

 各民族の魂を通じて意識に昇る民族固有の言葉には、それぞれ特有の言霊が宿っている。

 それゆえにこそ、人類が繰り返し行ってきた伝統の破壊においては、まず真っ先に攻撃されたのは言葉である。

 侵略された国家が最初に奪われるのは言葉である。

 または国家が自ら伝統を放棄し、「近代化」の名の下に対外的対抗を準備する際に、最初に改革するものもまた言葉であった。

 私たちの国、日本もいくつもの段階に渡って、自ら伝統的な言葉を無理な力で改革してきた。

 あるいは主に米国による侵略行為によって言葉を破壊されてきた。

 改革には積極的な意味のあるものもあった。

 しかし、近代以降の改革は概ね、失敗であったと私は考える。

 またそれに止めを刺したのは、敗戦を経て、GHQの影響を受けながらも、結局、自らの意志で敢行してきた国語改革であった。

 自身にとって、最も身近な例を用いて、私は語りたい。

 私は心臓発作の後遺症により身体障碍三級の手帳を有している。

 さて、私は今、身体「障碍」という言葉を用いた。

 が、実際の手帳には身体「障害」と表記されている。

 この「障害」の「害」という言葉の語意を嫌って「障がい」と表記する人がいる。心持ちはわからないでもないが、このような漢字と仮名の交ぜ書きは見た目に不格好なばかりか、語意を不明瞭にし、日本語を混乱させてしまう。

 では「障害」と書く方がいいのか。

 それが正しい日本語なのか。

 実はそうではないのである。

 そこでここでは、この「障害」という言葉、本来、日本語でも何でもない言葉がどのようにして捏造され定着したのかを振り返ることを一つの縦糸に日本語の変遷を辿ってみることにしたい。

 初めに障碍という言葉が漢字と共に日本に入ってきた。

 呉音で(しょうげ)と読む習わしであった。意味は「さまたげ」である。この言葉には「害」という意味はない。

 我が国では古くから漢字の呉音が民衆の間で広く用いられてきた。

 日本語の発音を漢字という文字を仮借して表現しようとした大いなる試みであった万葉仮名も、漢字の呉音を借りたものであった。

 また仏教用語の多くは百済経由で日本に流入し、呉音において日本に定着していった。

 障碍の対義語は無碍(むげ)である。

 意味は「さまたげがないこと」である。この言葉は仏教において、とりわけ重要な用語である。

 少し回り道となるが、この「無碍」という言葉の持つ意義を少しく解説したい。

 日本で最も多くの信者を有している仏教の宗派に浄土真宗、浄土宗などの浄土教がある。

 浄土教では「南無阿弥陀仏」という言葉を称えることはよく知られているところである。

 この言葉は古代インドのサンスクリット語を中国語に音写した(音を漢字に写した)ものである。

 同じ言葉の、音ではなく、意味を訳した場合、その言葉は一例として「帰命尽十方無碍光如来」となる。

 ここに「無碍光」という言葉が含まれている。

 何の妨げもなく、あらゆる方向を限りなく照らし出す光という意味になる。

元のサンスクリット語を音写した「南無阿弥陀仏」の方が「念仏」として人口に膾炙しているので、こちらから考えてみよう。

 「阿弥陀仏とは「amitayus 無量の寿命の」「amitabha 無量の光明の」の「amita 量ることができない」という部分を「阿弥陀」と音写し、仏(buddha 悟りを開いた者)という言葉につないだものである。

 このamitaをさらに精しく分析するとaは否定の接頭辞である。

 mitaは英語で言うならmesure(計測する)と共通の語源を持つと言われる。量るということである。

 従ってamitaは無量と中国語に意訳される。

 量り得ないという意味になる。

 阿弥陀仏とはなにものにも妨げられない量り得ない光の仏(無碍光如来)を表すのである。(如来と仏はほぼ同じ意味と考えていただきたい。)

 南無のサンスクリット語はnamoである。

 漢訳では、帰命(きみょう)と意訳されるが、すべてをゆだね、まかせるという意味になる。

 「南無阿弥陀仏」と音写されたものを意訳すると「帰命尽十方無碍光如来」となる。

 意訳には他の訳し方もある。が、ここではこの表現に代表させ、「無碍光」という言葉が、仏教ことに浄土教においていかに重要な用語であるかを確認しておきたい。

 「南無阿弥陀仏」とは「帰命尽十方無碍光如来」すなわち、あらゆる方向に何の妨げもなく(無碍に)行き渡る、量り得ない無限の光のはたらきにすべてをおまかせするという意味になるのである。

 今、私が言いたいのは、深い精神文化の要を担う、この「無碍」(むげ=さまたげがないこと)という言葉こそが、障碍(しょうげ=さまたげがあること)の対義語であるということだ。

 話を、破壊されてしまった現在の日本語に戻そう。

 現在、「障害」と表記されている言葉は、本来「障碍(しょうげ)」または「障礙(しょうげ)」であった。

 それが伝統的な正しい日本語であった。

 意味は「妨げ」である。

 対義語は「無碍(むげ)」であり、意味は妨げがないことであった。

 「融通無碍(ゆうずうむげ)」という、さらにその自由自在な妨げの無さが強調された四字熟語も、日本語の中にはある。

 では、なぜこの正しい日本語としての「障碍(しょうげ)」が、今では「障害」と表記され、(しょうがい)と読まれるようになったのであろうか。

 それにはまず、江戸時代のある時期より雑多な呉音が、体系的でよく整理された漢音に置き換えられていったという経過がある。

 現在では、伝統的な仏教用語以外の殆どの日本語は漢音で読まれるようになった。たとえば修行(しゅぎょう)の(ぎょう)は仏教用語としてだけ用いる呉音である。が、行は、通常、漢音で(こう)と読まれる。

 この漢音への移行がほぼ完成したのが明治時代だった。

 この時期、日本は、黒船の来襲、欧米文化との衝撃的な出会いの中、列強と対抗できる国づくりを急いだ。

 その際、日本語もまた近代語としての機能を十全に発揮できるように、大きく改造された。

 その一つが今述べた「体系的な漢音」による発音への移行である。

 そしてもっと重要だったのは、数多くの欧米語が漢語に置き換えられ、日本語の語彙に取り入れられたことである。

 それは称讃されるべき言語革命であった。

 今でも、日本人は英語が下手だということについて、したり顔でマイナスのことのように言う輩は存在する。

 しかし、それなら・・・たとえば英語を使い熟す人の多いフィリピンは日本以上の近代的な経済発展を遂げた国家であろうか?

 少し冷静に考えてみればわかることなのだが、日本人が英語を得意としないのがたとえ事実であったとしても、それはけっしてマイナスなことではない。

 むしろ逆に、日本語だけですべての用が足りるように日本語を改造したことの正の遺産なのである。

 明治の日本人は、新たに出会った欧米語の概念を次々に漢語に置き換えて日本語の語彙に取り入れていった。

 そのため日本語は、欧米の科学や思想を自在に表現できる近代語として生まれ変わったのである。(それによって日本は非欧米世界で唯一、近代国家として欧米に肩を並べることのできる国となった。)

 ただ、この日本語の近代語への改造はまったくマイナス面がなかったわけではない。

 たとえば漢字の読みを漢音にほぼ統一したことには、言霊のレベルで見ると、失われたものがなかったとは言いがたいのである。

 さて、この時に、「障碍(しょうげ)」という言葉は、漢音で(しょうがい)と発音されることが定着したのである。

 だが、漢字表記は飽くまでも「障碍」であった。この点をひとまず押さえておこう。

 その後も我が国における国語改革に関する模索は、大きな揺れ幅の中で続いた。

 もっとも「日本語ローマ字化論」や「漢字全廃論」などはさすがに発想のレベルだけで潰えていった。

 それでも現実に行われた改革の中で、長音を「-」で表すという大胆な施策がとられたこともある。

 が、この表記法はすぐ数年後の文部省令で廃止された。

 一方、漢字の制限についても模索され続け、たとえば臨時国語調査会によって大正時代の常用漢字表が作成されたことなどは、一般にはあまり知られていない。

 だが、数々の模索を経てきた国語改革が、次の大きな節目を迎えるのは、なんといっても第二次世界大戦後である。

 敗戦した日本を占領したGHQにとって至上命題は、日本が再び米国にとっての軍事的な脅威となることを封じ込めることであった。

 実は日本の識字率は当時の世界においても特別高かった。

 しかし、日本の軍国主義化の原因の一つを識字率の低さと考えたGHQ民間情報教育局の言語課のホール少佐は、日本語のローマ字化など大胆な国語改革を画策した。

 しかし、米国側にも国務省のボールズなど「言語改革は日本側に任せるべきであって、外部から強制するものではない」という考えは強かった。紆余曲折を経て、日本語のローマ字化は廃案となった。

 国語改革は日本の学識経験者らによる国語審議会に委ねられた。

 その答申を受け、1946年「当用漢字表(1850字)」、同音訓表、同字体表、教育漢字、「現代かなづかい」が内閣訓令・告示として公布された。

 「当用漢字」とは将来的な漢字全廃を念頭において、当面簡略化した新字を制限された字数において用いるというものであった。

 また「現代かなづかい」は語義に基づいて緻密な体系を有していた「歴史的かなづかい」を破壊してしまった。

 その後、さらに国語審議会では表音派と表意派の激しい論争が続き、結果1961年には作家の舟橋聖一など表意派の多くが脱退してしまった。

 私の手帳にはなぜ「身体障害者」と記されているかの結論を書く時が来たようである。

 古くからの大切な日本語の語彙である「碍」という字は、使用頻度の面から当用漢字表(後の常用漢字表)から外された。

 そのため「障碍」という言葉は「障がい」と漢字ひらがな混じりで表すしかなくなった。

 そのように漢字ひらがな混じりで表すしかなくなり、大変座りの悪くなった言葉は「耳鼻いん喉科」など数多くあった。

 そこでいくつかの用語に関しては代用文字が定められることになった。

 その時、障碍の「碍(がい)」の代替として「害」の字を用いると定められたのである。

 実にこの時、日本語において初めて「障害」という用語が捏造された。

 日本語の体系は破壊された上で、意味も精神を失った新語が捏造されたのである。端的に言うと、日本語は破壊されたのである。

 比喩の喩という字も当用漢字表から外されたため、「比ゆ」と表すしかなくなった。

 もっとも当用漢字への批判が高まる中、新たに制定された「常用漢字」は、漢字使用の「目安」とされたため、比喩と書くことが完全に禁止されているわけではない。

 しかし、なお問題は残る。

 たとえば新字体が常用漢字表に含まれる輸入の「輸」と比喩の「喩」は右側の旁がもともと同じである。

 しかし「喩」の方は新字が存在しない。そのため二つの旁は同じであることが、見えない。

 漢字という非常に緻密で大きな体系もまた破壊されたのである。

 また現代かなづかいでは日本の代表的な歌曲のひとつ『故郷』の出だしは「うさぎおいしかのやま」となる。

 幼い私はうさぎをつかまえて食べるとおいしいのかと思ってこの歌を聴いていた。

 が、歴史的かなづかいを用いるなら、「うさぎおひしかのやま」である。「おふ=追ふ」というハ行に活用する動詞の連用形であることが明瞭である。

 そんなことすら、私たちはわからないように私たち自身の言葉を奪われたのである。

 とはいうものの、旧字や歴史的かなづかいは難解ではないか、新字や現代かなづかいは言語習得の難易度を減じたのではないかと言う人がいるかもしれない。

 しかし、それは子ども時代から体系を破壊された日本語で教育を受けてしまった私たちが後付けで考えることにすぎない。

 私は、知的障碍があったと言われる放浪の画家山下清氏の日記を展覧会で見たことがある。

 そこでは細やかで繊細な文字で旧字と歴史的かなづかいが完璧に使い熟されていた。

 私は涙を禁じ得なかった。

 私たちの破壊された日本語は、多くの日本人の共有財産であったことがあれほど胸に迫ったことはない。

 昨今ではここに書いてきたような「破壊された日本語」を意識的に復元しようとする若者が現われ始めているのは頼もしいことである。

 たとえば「気」を「氣」と書く例などはネット上などでよく見かけるようになった。

 この字にはどうしても「米」という字の持つエネルギーが必要であるという止むに止まれぬ思いが彼等を動かしているのであろう。

 日本を言霊の咲きはふ国として復活するのは容易な事業ではないだろう。

 しかし、私たちは奪われたものを今こそ取り戻さなければならない。

 この小論が広くその意識を啓蒙する一助になれば幸いである。

(言語論においてだけ、あびはきちんとした右翼と意見が一緒なのが笑える。)

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