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この世に投げ返されて(33)   ~臨死体験と生きていることの奇跡~

(33)

 父は65歳にして食道癌で亡くなりました。その際、私は母に「あの僧侶を呼ぶのは反対だ。自分たちで見送ろう」と言いました。
高校生ぐらいから自分で哲学書や仏教書を読むようになった私は、旦那寺の臨済宗の僧侶と法事の際に議論するようになりました。時に父が「もうそれ以上は言うな」と私を制止しました。
 インドの瞑想家や、日本の禅や念仏の思想に親しむようになった私は「高校を卒業したら、インドに瞑想の修行に出る」と言い出しました。
両親は猛反対をしました。
「現実に仕事をもって生きていかなければいけない。そのことが考えから抜け落ちている。大学には行くべきだ」と私を説得しました。私もまだ子どもだったので、両親からの一切の後ろ盾も無しに家を飛び出すまでの、力も勇気も持ち合わせませんでした。
 「僕の好きな禅の大家の鈴木大拙も教授をしていた大谷大学で禅や念仏を学ぶのなら行ってもいい。それ以外の学問には、意味を感じることができない。ほんの一瞬、生きて死んでいくのに他の勉強に意味を感じられないで生きてきた。高校までは我慢してきたが、もう解放してほしい」
 それが私の主張でした。
 両親はその大学は評価できないとしながらも、教職免許を取得するのなら、そこへ行ってもいいと言いました。
 私の方もなんといっても自分で生活する経済力がなかったので、両親との妥協点を探っていました。
 「わかった。文学は好きなので、国語の教職の免許を取る」と答えました。
 教職免許という「妥協点」だと思ったものは結局、私の人生を大きく支えることになりました。
 こうして、大学で仏教学を学ぶようになった私は、実際その学問には深く惹かれていきました。寺院を継ぐためにここに集まった僧侶の子弟たちに交じって、生活のためではなく経典の思想そのものを真剣に探究していたためか、教授にもかわいがられ、結局大学院の修士課程まで仏教学を修めました。
 その間に休みなどを利用して、インドやアメリカに旅をしました。いずれも、グルと呼ばれる瞑想の師匠たちを訪ねてのものでした。
 そんな私は、ますます日本の宗派仏教がいわゆる「葬式仏教」に堕しているという批判を先鋭化させていきました。法事に来る旦那寺の僧侶とは、ますます犬猿の中となり、話すらしないようになっていきました。
 そのような二十年にも渡る経過を経て、私は父の死の際、僧侶を呼ぶことに反対したのです。
 しかし、母は「お父さんの喪主は私がする。ここまでは私にさせて。そのあとは、あんたに任せる」と私に言いました。
 父の葬儀はそれなりに盛大なものだったと思います。院号のついた戒名も授けられ、母はそれに高いお金を払いました。
 院号について相談している母に僧侶は「司法書士という立派な仕事をされ、寺院への貢献も果たされておりましたので、院号をつけることは問題ありません」と話しました。母との約束があったので、私は黙っていましたが、それは私が経典で学んだ仏教とは何の関係もない、むしろそれに反する考え方だと思って聞いていました。
 そもそも、そんなことを決める何の権限が僧侶というものにあるというのでしょうか。

 貧しい家庭に育ち、高卒後、進学する余裕などなかった父は電々公社に就職し、そこで母と出会い結婚しました。そして、私と弟のふたりの息子をもうけました。
 私が小学生のころ、一念発起して、独学で司法書士の資格を得ました。大変難しい資格だと言われており、高卒では本当に珍しいことです。
 日本の高度成長に歩調を合わせていたことも関係しますが、私たちの家庭は徐々に経済的に豊かになっていきました。
 父の乗る車が、買い替えのたびに豪華になっていくのを私は横目で見て育ちました。
 しかし、自分で物を考えるようになった思春期以降、父を「俗物」として反抗した時期もありました。
 私の幼い頃、まだ自家用車を買うことができなかった父は、やっとのことで手に入れた自転車を日曜日になるたびにうれしそうにピカピカに磨いていました。そして、幼い私を荷台に座らせて、サイクリングに連れていってくれるのでした。
 あの頃が一番幸せだったのではないでしょうか。
 ある日、父の自転車の荷台に乗って歯医者に出かけました。帰ろうとして、駐輪した場所を見ると、自転車がありません。盗まれていたのです。
 父は私を交番に伴い、盗難届を出していました。警察官に「見つかるでしょうか」と尋ねています。警察官は「さあ、難しいでしょうねえ」と正直に答えていました。
 蓮根畑の間を行く長い道のりを、すっかり肩を落とした父の後ろに付いてとぼとぼと歩いて帰った光景を覚えています。
 今、僧侶が院号の資格があると語った中身は、父の人生の具体的な姿を殆ど何も知らない他者のたわごとにすぎません。
 「この寺と一切の縁を切る」その腹はその際に決まりました。

 父の葬儀のあと、私はすぐに檀家をやめようとしました。
 が、母は「あんたがそう言うなら、法事にはもう来てもらわないが、先祖の墓の整備代だけ納めるというのでどうか」と私を宥めました。
 実はお墓という存在自体が、私の仏教についての知見に反しました。
 しばらくの妥協の年月の後、母の認知症が進んだ時点で、私は行動に移りました。
 多くの人が、旦那寺と縁を切るのは大変なことだと信じ込まされています。江戸時代の寺請制度に始まる日本仏教の歪んだ歴史がその背景にあります。
 しかし、私が旦那寺と縁を切るのは、電話一本で10分以内に済みました。寺と私たちには法的に有力な契約など何もありませんから、意志をはっきりさせるだけでよいのです。
 電話で私は「あなたの寺の檀家をやめる。墓は破棄する」と住職に告げました。
 「墓を破棄するのなら、霊(たま)抜きのための費用がかかります」僧侶は言いました。経典の研究から、私は死後の個的な霊魂といったものをまったく信じていませんでした。
 私は「それはあなたの信仰かもしれないが、私には何の関係もない」とき っぱり言いました。
 思春期の頃から私と何度も言い合いを経てきた僧侶は、あっさりと主張を引っ込めました。
 たったそれだけで、私は日本の宗派仏教というものとすべての縁を断ち切ったのでした。

ですから、母が亡くなった時点で、私たちには旦那寺もなければ、お墓もなかったのです。
「ぜんぶ、自分たちでやろう」私はそう弟に言いました。

 

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