魂の螺旋ダンス 改訂増補版 (12)民間信仰の弾圧

・ 民間信仰弾圧の系譜

ミルチャ・エリアーデは、真の入神の伝統を求めて来日したが、イタコなどにそれを見出すことはできなかった。
その後のノートの中、彼は、神道が入神行為を禁止してきた歴史について触れている。

彼は、シャーマニズムを弾圧する最初の勅令が七八〇年に出され、続いて八〇七年にもう一度勅令が出されたことに注目している。
これらは神社の境内の外における霊媒行為を禁止するものであったとエリアーデは指摘する。

つまり私邸における変性意識を擬似的なものとして差別し、国家の威信と権威を高めようとしたと言うのである。
雑多なシャーマンの手から、祭司権を収奪し、国家の手の中に一元化しようとする試みであるという問題意識である。
(エリアーデの触れている七八〇年の勅令は「続日本紀」宝亀一一年二月一四日条に、また八〇七年の勅令は「日本紀略」大同二年九月二八日条にあたる。)

しかし、その勅令は無駄だった。というのも、人々は「あらゆる種類の霊媒、魔術師、入神者に、彼が彼らを見出した所、すなわち神殿内でもその外でも諮ることを続けてきたのである。」(『エリアーデ日記』)

最初の勅令が七八〇年であることに注意してほしい。
そもそも日本=天皇制=神道の成立が、七世紀から八世紀にかけてであることは先に述べた。
ということは、日本=天皇制=神道は、形成されたその直後から、多様な変性意識を抑圧し混沌(カオス)の中に秩序(コスモス)を生み出そうとし始めていたということになる。

上記二つの勅令は、その事を端的に物語る。神道は、民間信仰ではなく、雑多な民間信仰のノイズを消し、祭祀権を一元化しようとする国家宗教であることは、このような点からも窺い知ることができるのである。

さらにエリアーデは指摘する。「一八七三年に出され公布された最後の勅令は、神社の境内においてすらも入神行為を禁じた。公的には神道は二千年間にわたる入神の真の伝統を放棄した。(これは西洋化の第一段階だったのか。)」(同書)
(エリアーデが触れているのは明治六年一月十五日教部省通達第二号である。「梓弓による神降ろし、憑依祈祷狐下げなどの所業禁止の件。以前より、梓弓による神降ろしならびに憑依祈祷狐下げなどと唄し、占い口寄せなどの所業をもって人民を幻惑させているものがある。これについて今後一切禁止するので各地方官はその旨を心得て管内の取り締まりを厳重にしなさい。」)

入神行為を禁じる最後の勅令が、一八七三年(明治維新の直後)であることも、象徴的な事件である。
なぜなら、この国の宗教弾圧は、明治以降の国家神道において頂点を極めるのであり、ここには国家神道がついに神道それ自身をも弾圧して、純粋な国家主義イデオロギーになろうとしている姿が、端的に現れているからである。

「国家神道」とは戦後GHQによる命名であるが、明治以降において教派神道以外のいわゆる神社神道を指す場合には、定義上非常に有効な言葉である。

すなわち、GHQの「神道指令」では、「国家神道、神社神道」の理念として、「1、日本の天皇が、家系、血統、起源の上で、他の国の厳守よりすぐれているという考え。
2、日本の国民が、家系、血統、起源の上で、他国民よりすぐれているという考え。3、日本の国土は、神によって作られたから、他の国よりすぐれているという考え。4、侵略戦争を行うために、また他の国民との間の紛争を解決するための手段として、武力を用いることを謳歌する考え」
という四点を提示している。


まさしく明治以降の神社神道にとっては、その四点が、至上の命題であった。
活き活きとした霊的源泉に触れる活力などは、むしろ「ノイズ」を生み出しかねない邪魔ものであった。
だからこそ、神社の内外におけるあらゆる霊媒行為を禁止し、またシャーマニックな教祖を立てる教派神道や新興宗教を過酷に弾圧し、コントロールしようとしてきたのである。

また明治以降の国家主義イデオロギーは、国中で猛烈な神社合祀を推し進め、民間信仰の息の根を止めようとしてきた。
神社合祀の嵐は凄まじく、廃仏毀釈と並ぶ廃神毀祇が行われたと言っても過言ではない。

たとえば、最も合祀の激しかった三重県において明治三六年と大正三年の神社数を比べてみると、一七三三社あった県郷村社は六七三社に、五二五〇社あった境外無格社は一三〇社に激減している。実に九割の神社が整理されてしまったのである。(『近代の集落神社と国家統制』森岡清美著)

殊に境外無格社への弾圧が熾烈さを極めているのが、おわかりいただけるだろうか。村落の角々にあった無数の小神社や祠が無くなり、この島の民間信仰は、まさしく息の根を止められようとしたのである。

三重県においては「路傍にあって民衆の信仰を支えてきた道祖神などの記念塔碑とか月待・日待の行事などは、いちはやく姿を消して、よほどの山奥や離れ島か、英虞湾沿海の辺地に出かけないとみることができない。」(『日本列島・南への旅』桜井徳太郎著)

それにひきかえ、伊勢神宮に関係ある摂社、末社、境内社は枚挙に暇にないほど鎮座しているという。
これについて桜井は、ほんらいは無関係の縁起を持つ社祠までが、類縁を持つようにつくられ語られるうちに、その範疇に含められたのではないかと考察している。

桜井の「民衆の信仰はよほどの山奥や離れ島でないとみることができない」という叙述が気になった私は三重県鳥羽市の答志島に調査に出かけたことがある。

 その際、船の中からそれぞれ無人島の大築海島、築海島を撮影することができた。

画像1

左 大築海島  右 小築海島

 大築海島神社は明治41年に八幡神社(答志島)に合祀され、小築海神社は明治42年に八幡神社に合祀されたとガイドブックにはある。
 だが、有人島の答志島の八幡神社には大築海、小築海の祠はなかった。

 一方、地元の人によると、大築海島、小築海島には今でも祠があり、年に一度祭祀が行われると言う。

 明治末期の神社合祀令に対して、書類上だけは合祀したことにし、実際には従わなかったし、今なお民間信仰の伝統は受け継がれているのだ。
 海人(うみんちゅ)にとって、日々の命がけの航海、漁師としての生涯を守ってくれる神々を「整理統合せよ」という国家の命令など、けっして首肯できるものではなかったということであろう。
 私はそんな感慨に浸った。民衆の生活に根差した信仰をいうものに想いを馳せ、胸が熱くなった。

 森岡清美は明治神宮創建の背景を語る中、端的に次のように述べている。
「近代の国家権力は一方では集落神社の整理を可能な限り推進し、他方では集落神社の創設にきびしい枠を課すると共に、きわめて社格の高い小数の有力神社を創建した。この両面政策は、天皇崇拝に収斂していく国家神道の施設としてふさわしくないものを廃し、国家神道の教義を体現する施設を造営することを狙いとした。こうして地域住民の生活とは縁のない非集落神社が創建されていったのである。」

 もっとも、当時の世界情勢の中において、明治国家の中央集権化と富国強兵政策の意義は、一概に否定しきることはできない。
強い国家を形成して欧米と対峙することが、切実な要請であったことは、現在の我々にも想像に難くない。
あるいは当時はそれで精一杯だったのかもしれない。

 しかし、私たちは今なら、その影に失われていったものにも、改めて視線をそそぐことができる。
私たちは今なら、 国家の合理的な機能を生かしたまま、大地に根ざした多文化共生的な視野を導入することが可能なのではないだろうか。

  神道が神道を弾圧、統合してきた側面を中心に述べてきたが、もちろん民間の仏教信仰を弾圧してきたいわゆる廃仏毀釈も苛烈なものであった。
 帝国国家への協力をいち早く表明した仏教の大宗派などは逆に帝国の庇護のもとに勢力を伸ばしたとさえ言える。
 廃仏毀釈というも、神道が仏教を弾圧したという見方では単純に過ぎる。「民間信仰」を、帝国と結びついた神道や仏教が破壊してきた歴史という見方の方がむしろ正確であろう。

 ことに廃仏毀釈の苛烈であった薩摩=鹿児島県において私はその大きな傷跡のいくつかを目の当たりにしてきた。
 その何例かも紹介しておこう。

 ひとつは、隼人塚史跡館で撮影した正国寺石仏である。単なる廃止というのではなく暴力的にたたき割られているのが痛々しい。

画像2

 もうひとつは、日秀上人の興した元の三光院(寺)が、廃寺となり、日秀神社となった例である。
 その際、そこい祀られていた数多くの石仏は全て廃すよう命じられたが、信仰の厚い村人はできるだけ隠しておいた。
 そして隠しておいたそれを帝国が表面上は崩壊した戦後、また並べ直したのである。
 私は並べなおされた石仏を写真に収めた。しかし、解説によると、石仏は心ないマニアに一部は持っていかれ、また減ってしまっているということだった。

画像3


 いずれにせよ、そのような三光寺の由来を歴史的に記さず、ただ旧社格を「無格社」とする鹿児島県神社庁の由来書記述は、欺瞞的であり、不誠実である。
 無格の神社だったのではなく、寺であったものを「無格社」であったと今なお歴史を改竄したままなのである。

 小高い山の中腹にある、日秀院を囲む村は、みかん畑の多い、のどかな村だった。桃ではなく蜜柑だが、桃源郷ならぬ蜜柑源郷的な所だった。道を教えてくれた老婆も親切だった。
 そこに暮らす人々の精神生活を国家の都合でぶったぎった歴史がある。
 その歴史について誠実に振り返る姿勢は今なお、鹿児島神社庁にはない。ゆえに由来書の記述はごまかされたままなのでる。

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