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神の権威に従うとは ローマ人への手紙より

かなり昔の日記より

 
 学校教育上のエホバの証人信者の生徒との対応について質問があったので、電話してエホバの証人に来てもらった。だいたい話が終わりかけたとき、エホバの証人のその人は、権威には服するが、信仰を貫くというようなことを言った。

 そのとき、あびのアンテナがぴぴっと動き、
「え? エホバの証人は、地上の権威に服するんですか。それじゃあ、だめですよ」と言った。

 すると彼は「聖書を引用してもいいですか」と言って、この日、初めて聖書を鞄から出した。
 彼が引用したのは、ローマ人への手紙13章の「新世界訳」だ。

 エホバの証人の使っている新世界訳を見せてもらうとその部分はこうだ。

「 すべての魂は上位の権威に服しなさい。
神によらない権威はないからです。
存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。
したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。
それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。 」

 僕はこれは自分の尊敬する、釜ヶ崎の本田哲郎の訳と違うと言った。
 ヘブライ語に遡っていないからこうなっていると僕は言った。
 地上の権威に対する姿勢が不徹底であり、再び道を誤る可能性があると言った。

 本田さんのこの部分に関する解釈を引用しよう。

「ローマ/ガラテヤの人々への手紙」(新世社)の『あとがき』より。

(以下引用)

『これまで教会は「権威」について、聖書(パウロ)のことばを次のように翻訳(解釈)して、それを私たちの取るべき姿勢として教えてきました。

 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ人への手紙 13:1-2)

 これは新共同訳聖書による翻訳ですが、他の日本語訳も欧米訳も似たり寄ったりで、解釈はほぼ同じです。
 要するにこういうことです。
 「教会に逆らうな、国家に逆らうな、勤めている会社の方針に逆らうな、通っている学校の教育方針に逆らうな、家長の意思に逆らうな・・・権威というものはどれも神の意思を現すものだから・・・」。
 もしそうなら、教会の言うことと国家の言うことが違った場合、いったいどうすればいいのでしょうか。
 父親、母親として自分の子どもをこう育てたいという思いと学校の教育方針とが違う場合、どうしたらいいのでしょうか。
 (教会にも国家にも、親にも学校にも)それなりの権威はあるはずだからです。どちらを選んでも他方の権威に逆らったことになり、「神の定めに背くこと」になってしまうわけです。
 もし、パウロの言わんとすることがこの翻訳(解釈)のとおりであるとするなら、パウロ自身も、とてつもない自己矛盾を犯していたことになります。
 パウロはユダヤ教の権威とファリサイ派の権威に背いて、福音による「新しい解放の道」を選択した人でした。

~中略~

 これは明らかに翻訳ミスです。というよりは既存の神学を意識した意図的な引き寄せ翻訳と言うべきかもしれません。
 同じ個所を原文どおり素直に訳せば、こうなります。

「人はみな、すぐれた権威には従うべきです。
 じつに、神の下にあるものでなければ、それは権威ではありません。
 神の下にあってこそ、権威として命令を出せるものだからです。
 そういうことですから、この権威に逆らう者は、神が命じることに背いているのであり、背く者は自分の身に裁きを招くことになる のです」
                     (ローマ人への手紙 13:1-2)

 つまり、こういうことです。
 人の世にはいろんな「権威」が重層的にからみあって存在しているが、その中で、わたしたちがほんとに従わなければな らない権威は、限られている。
 だから識別が必要なのだ。識別の基準は、それが「神の下にある」かどうかである。
「神の下にあってこそ、権威として命令を出 せるものだから」だ。』

(引用終わり)

 そして、ここが一番肝心なのだが、本田さんによると、神の下にあるとは、最も弱き立場の者の隣りに寄り添って立つということのほかには、ないのである。

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