魂の螺旋ダンス(31) 第5章 内閉的カルト グルイズムからシャーマニズム復興運動へ

第5章 内閉的カルト

・ グルイズムからシャーマニズム復興運動へ

絶対性宗教の外向きの力学が侵略行為であるとするなら、その内向きの力学は「内閉的なカルト」と化していくことである。

次に私はこの「内閉的カルト」について、自らの体験も踏まえながら論じていきたい。

そのことは、超越性宗教の「絶対化」のプロセスについて、詳細な光を身近な距離から照射していくことに繋がるはずである。


・・・学生時代の世界放浪、グル巡り、セラピー巡り。私は、すっかり精神世界、ニューエイジ思想にどっぷりつかった状態であった。

が、精神世界、ニューエイジ思想が一種の流行になり始める頃から、ある種の疑問が渦巻き始めた。


精神世界、ニューエイジ思想の大部分はゴミための中のものに似ている。

しかしその中には、きらりと光る本物のダイアモンドもあるというのが、大方の見方だと思うし、実際私もそう感じている。

しかし、そのかなり良質の部分にすら、いくつかの問題が見られる。

実のところ、私は自分のグルであったバグワン・シュリ・ラジニーシにすら、同じ問題点を感じたのである。


おそらく最大の問題点は、思想の絶対化、殊にグルの言説の絶対視という現象だ。

これはちょうど人類の歴史の中で、超越性宗教が再び硬直し、むしろ一人一人に対して抑圧的に働きはじめるプロセスに似ている。

これが現実的な政治権力と強く結びつけば侵略性さえ帯びるわけである。

だが、主流派の側からカルトの烙印を押されて内向する場合には、先鋭化して自滅するというプロセスが待っている。


また、グルの絶対化という、構造上の問題だけではなく、実は中身の点からも精神世界、ニューエイジの言説は多くの問題点を持っている。


それは「社会的問題意識の希薄さ」といった点に集約できるかとも思う。

一つだけ重要な例を上げるならば、「すべては自己自身の選択の結果、起こっているのだ」という考え方だ。

この考え方は、グルイズムからチャネリングに至るまで、精神世界、ニューエイジ思想のかなりの部分に共通する考え方である。


もちろん、何もかもを他人や環境のせいにして自己逃避を続ける生き方からの転換には有効な言説ではある。

だが、一方、それだけでは社会的な責任といったものを冷静に見つめる視点が、曖昧になってしまう。


一つの端的な例として雑誌『現代』一九九二年二月号の「激突! 部落解放同盟VSオウム真理教」という対談記事があった。

宗教学者の島田裕巳の司会で、部落解放同盟の当時の書記長である小森龍邦とオウム真理教の麻原彰晃が対談している。

前世の業などを持ち出し、自己責任(カルマ)論において部落差別までをも捉えようとする麻原と、浄土真宗の信仰を背景に持ちながら社会的な視点で運動を進めている小森の立場とは、当然対立することになり、論点が浮き彫りにされていて興味深い。


しかし、論点はこの両者の間にだけ存在したわけではなく、実際にはニューエイジ思想全体の持っていた傾向性と、社会的な問題意識との間に、常に横たわっていたはずのものなのである。

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