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アミタの観た夢 (5)

 制服のカッターシャツのボタンを、ひとつまたひとつ外していくごわごわした男の手。右手の人差し指と中指の間には煙草の脂が溜まって黒ずんでいる。
 胸襟を開いた先に現れた沙織の十六歳の肌は、同じ歳頃の乙女たち同様、艶々と輝いていた。
 白い陶磁器のような輝きに置かれた男のくたびれた手の甲は不調和であるがゆえに、ざらついた違和感をもたらしている。
 男はごくんと唾を呑み込んだ。

 準備が整わないままこの世に投げ出された彼女は、保育器内の酸素不足で生じた脳細胞の一部に回復不可能な損傷を受けた。
 脳性麻痺という障碍を背負い、松葉杖なしでは歩けない生活を余儀なくされ、不穏な日本社会に船出したのである。

 物心ついてからの沙織は、自分をそのような存在として世界に投げ出した母親を何度口汚くなじり、拳を狂ったように繰り出して殴ったことだろう。狭いマンションのキッチンの片隅で冷蔵庫の扉を背にするところまで追い詰められ、無抵抗で殴られることの多かった母親は、「ごめんね。ごめんね」と繰り返して泣くばかりだった。
 やがてその無益な八つ当たりにもくたびれ果てると、沙織は結局、痣だらけの母親の腕に飛び込んで抱かれ、押し寄せるやるせなさが収まるまで、ひたすらむせび泣くのだった。

 そんな沙織も特別支援学校高等部の二年生になっていた。両の脇に松葉杖をつき、体をくねらせて辛うじて短い距離を前進する沙織は、街の中で殊に子どもたちから、しばしば心ない嘲りを受けた。
 そのため、外出を厭い、支援学校の迎えのバスが来る場所に時間ぎりぎりに向かうのにも、気力を絞り切らねばならなかった。

 美しい少女に育った支援学校高等部の女生徒の沙織の衣服を今剥ぎ取ろうとしている男は病虚弱児学級中等部で担任を勤めた教師だった。
 中等部在学中より彼女の美貌を眩しいものに感じてきた谷口は、女子高生となった沙織を呼び出し、彼女を全く知らなかった世界へ連れ込んだのだった。

 「先生、本当に私で・・・」

 言おうとした沙織の唇を、その台詞の半ばで谷口の煙草くさい唇がふさいだ。
 ホテルの部屋の有線のチャンネルは谷口によって一〇代の女性アイドルたちの歌う、軽快な音楽が続くものに設定されていた。
 その中には女子高生が教師をくすぐるような、からかうような挑発的な歌もあった。

 沙織はラブホテルというところに足を踏み入れたこと自体がもちろん初めてであったので、枕元の有線チャンネルが多くの選択肢を持っていることも知らなかった。
 谷口がそのような歌を好んで選んでいるという性癖についても思いを巡らせる余裕はなかった。

 独身のまま四〇代を迎えた谷口は二〇年近くに及ぶ普通高校の教師生活の中でずっと十代の少年少女たちを見つめてきた。
 若い世代は、体がこちらに近づくだけで、肌の下を流れる血潮の音が聞こえるような勢いがあった。そんな彼ら彼女らが身辺にいるのが、彼には当たり前だった。

 何度か見合いをしたことがあったが、婚期を視野にいれて見合いに踏み切った女性たちの肌の張りが谷口には気にいらなかった。
 彼にそのような苦言を呈する余裕も権限もあろうはずはなかった。大方の失笑を誘うような「言い分」であるとしか言いようがない。
 そこには性癖というしかない、昏い人間の業が横たわっていたのだった。

 だが、現実には、十代の少女たちは谷口にとって恋人にすることなど不可能な存在であり続けた。
 それでも二〇代の頃は何度かあらぬ試みに走ったこともあったが、手痛いしっぺ返しを食らうに終わっている。

 病虚弱児学校中等部への転勤辞令を受け取ったとき、谷口は暗澹とした。 彼にはもはや弾けるような健康にあふれた美しい少女たちと親しく談笑する機会さえ奪われたのか。

 だが、病で黄ばんだような肌をした生徒の集団の中に、沙織が入学してきた時、谷口は細胞がざわついた。沙織の美貌は一三歳の入学時でさえ同級生の中で一際、光彩を放った。
 彼女が松葉杖を用い、体をくねらせながら足を引きずる身体障碍でなければ?
 谷口は自分が好きなテレビのアイドルたちと重ね合わせて、「劣らない」と独りごちてほくそ笑んだ。

 十六歳になったその沙織を今、谷口は三年越しの「恋」で自らの体の下に組み敷いている。
 いつまでも味わっていたい柔らかい唇の感触から息を継ぐように離れると、沙織はやっと言葉の続きを発することができた。

 「いいの? 本当に私で」

 沙織は自分が、障碍のない「健常者」と呼ばれる男のひとりに選ばれる日が来るとは、これまでの人生の中で一度も想像したことがなかったのだ。
 谷口はそれには答えず、カッターシャツを大きく開ききり、そこにまろやかに広がった両の乳房をつかんで揉みしだいた。そして桜色の初々しい乳首に歯をたてた。

 これから始まることが何なのか。
 友人たちとも孤立した思春期を過ごしてきた沙織は殆ど何も正確な知識を持っていなかった。
 ただ、今までに経験のない痺れるような感覚が、肌の上をさざ波のように走っていくのを感じた。その波紋は全身を覆いつくしていく。
 半身が左側にゆがみ、松葉杖頼り体を左右に揺らすことによってしか歩けない自分が、ひとつの完全な形をした光の繭に包まれる。

 (私が完全体になる)
 沙織の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。


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