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空即是色ホテル0号室 (1)

長い夢を見ていました。
突然の心室細動による一三分間の心肺停止、十日間の昏睡の後、奇跡的に蘇生した私は再び不自由なく歩けるようになり、妻と子どもたちの元に戻り、順調な作家生活を続けるという夢です。
その夢の中の夢「心肺停止中の臨死体験」についての細やかな描写を伴うエッセイを私は書きました。そのエッセイがベストセラーになるにつけ、念願の世界一周クルーズに妻と出かけることになりました。出国手続きを終えゲートを通って、港に停泊している白亜の船に近づいていきました。ビルのように見上げるばかりの船の、赤と緑の縞模様の煙突の先に眩しい太陽が煌めき、私はその太陽を見つめていました。
どうして瞬きもせずに私の瞳孔はその眩しさに耐えているのだろうか? 網膜がその光をありのままに受け入れ、何の抵抗もしないのは何故だろうか。おかしいではないか。私の瞳孔は死者のように散大したままなのではないか?
そう考えた瞬間、やっと夢から覚めました。白衣の医者が指に挟んだペンライトの光を私の瞳孔に当てて覗き込んでいたのです。
「瞳孔は散大したまま光に一切反応しない」
医者は厳かに傍らの私の妻に告げました。
「しかし、脳死しているわけではない」
医者は脳波計の緑色の波を振り返りました。

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