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強制労働の歴史とカムイノミ

アシリレラさんによると、平取町旭のこの地をアイヌモシリ一万年祭の地に選んだのには、理由がある。

この地を流れる貫気別川の対岸には、強制連行、強制労働させられていた朝鮮人たちの埋葬地がある。

強制労働は、アイヌ、和人の政治犯、朝鮮人の三者に課せられていた。この三者は支配を振りかざす和人にとって、差別される対象であるという意味において同じだったのだ。

彼らを供養するカムイノミを以て、一万年祭は始まった。
逆に言うと今なお、支配的な和人に反逆するスピリットを有して初めて、私たちはアイヌや強制連行された朝鮮人と繋がりうるのだ。

アイヌ文化を好奇な目で見て知ることが、アイヌを知ることにはならない。
肝に銘じるべきである。

血の歴史に連帯し、この最後の砦から反撃を開始する。
それがアイヌモシリ一万年祭のスピリットだと感じた。

反撃とは何か。
それは武力闘争を以て、支配権を和人から奪還することではない。

一万年前、地球であたりまえだった原始共産制を仲間と共に身を以て実践し、それを拡げ、もう一度この星を覆い尽くすことだろう。

実際、この一万年祭の七日間の生活は原始共産制に貫かれたものだった。(稿を改めておいおい述べる。)

ここでは、祭の始まりのカムイノミに話を絞る。
仏教の葬式や法事、供養に反対している私にとって、アイヌによる供養の儀式なら何故リスペクトするのかは、はっきりさせておかねばならない問題だ。

そこには、主催を司る者はいるが、供養を仕事にし、財産を作ったり、支配権を得るものなどいないと感じることができた。

供養は各自の先祖に捧げられると同時に、血の歴史に捧げられていた。
そして私の中には、先ほど述べた反撃だけが、真の供養だという思いがふつふつとこみ上げ、思いを新たにすることができた。

司祭権を振りかざし、支配の末端を担う仏教僧侶の行う法事とは、殆ど真逆の意味を持っていたと思う。

儀式はアイヌの信仰に沿って、禁忌を破らず、厳格に進行していったのは、基本である。
しかし、その禁忌を破らないことをやや威圧的に参加者に求めているのは、アシリレラではなく、その取り巻きのアシリレラ「信者」であるという気がしないでもなかった。

たとえばカムイノミの最初から最後まで、一度座った場所は離れてはいけない、そこに魔が入るからという禁忌がある。
しかし、これは最初の説明が不十分な中、厳密には実行されなかった。

そこで、場所を離れないでという注意をやや威圧的に行う人がいた。

だが、私が直接アシリレラに聞くと、実際に場所を離れないということより、そのようなスピリットで皆で共同でこのカムイノミの空間を創っているということの理解こそが大事なのだと、彼女は言った。

カムイノミ

アシリレラ

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