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この世に投げ返されて(16)  ~臨死体験と生きていることの奇跡~


 転倒した際、地面に顎を打ち付け、頚椎を損傷していました。外科的な処置が必要なレベルというわけではなく、痛み止めだけ処方されて帰宅させられました。
 急性の痛みは比較的すぐに収まったものの、そのまま手足の先が一ヵ月以上、痺れていました。
 この経験から私は改めて色々なことを調べ始めました。最初に確認したのは服薬量です。驚くべきことが判明しました。私が入院中に飲んでいたデパケンRとリボリトール(ランドセン)は、一日の服用量が大人の許容量の限界でした。一日にそれ以上飲むのは副作用が危険だとされていたのです。
それを退院まで2か月半に渡って続けたのは、長期連用という意味で、やや無謀でした。おそらく、病院としては院内で転倒事故を起こしてほしくないという事情が強かったのではないでしょうか。
 しかし、退院の際に処方され指示された服用量は突然数分の一に減らされていたのです。私はなぜそれに気がつかなかったのか。
まずは、病院側からは何の説明もありませんでした。同一量の長期連用は副作用が危険であるため、今後の処方量を減らしているということ、そのことにより、歩行困難などの症状がひどくなる可能性、その際の留意事項などを、病院はきっちりと説明するべきだったはずです。
   それでも量が減ったことに私が目視ですぐに気が付かなかったことには理由があります。院内では投薬は粉状にして行われていました。私は指示のまま飲んでいたし、飲み切るまで看護師はベッドサイドを離れませんでした。
そのため退院の際に錠剤でもらい、量を指示されたときに、それがいかに急激に減らされているかについて自分で気がつかなかったのです。
   私はこの二種類の薬の効果や、副作用について、ネット上で様々に検索しました。すると怖れるべき記事がヒットしました。その記事ではリボリトールを同一成分であるランドセンと表記していたのですが(退院時に処方されたのもそのランドセンの錠剤でした)、ランドセンの服用をやめると地獄のような自殺念慮に見舞われると書いていたのです。死にたくてたまらなくなり、そこから離脱するまで地獄のようだったと。
   なるほど、脳をリラックスさせるために飲んでいる薬なのだから、それはありうると私は考えました。この記事は、ある意味では、蘇生後の私の歩んできた道筋のすべてをひっくり返す爆弾のようなものでした。
   では、私が蘇生して以後、感じてきた高揚感や生きる歓び、すぐに障碍を受け入れて前向きになった気持ちなどのすべては、ランドセンの薬理作用であったのか。臨死体験から来る生きる姿勢の変化などという、美しいものではなかったのか。
   そして、もし私がこの薬を断ってしまえば、私はすぐにでも死んでしまいたいと感じることになるのか。何が臨死体験による生の逆照射だ? 何が「生きていることの奇跡」だ? この錠剤の、まるで麻薬のような効果に過ぎないのではないか?
   この問題はあまりにも大きかったので、私は禁忌を冒さざるを得ませんでした。もしも、この薬がなければ、自分は心身ともにどのような状態になるのかを確認せざるをえなかったのです。

   床に布団を敷き述べ、食べ物や飲み物を手の届く範囲に用意しました。緊急連絡用のスマートフォンも枕元に置きました。
   私はその日、朝からいつものランドセンもデパケンRも完全に断薬しました。「医師の指示に基づかない突然の断薬を勝手な判断で行わないように」という決まり文句が、頭の中を木霊しました。
   「先にすべて説明しろよ」という反論が私の意志をくっきりさせました。
私はこの多幸感や前向きな気持ちが、今まで生きてきた道筋や臨死体験によるものなのか、それとも「向精神薬」の薬理作用に過ぎないのか。それをはっきりさせる必要に迫られていました。そうでなければ、あらゆることの意味が根底からひっくり返ってしまうような一大事ではありませんか。
    昨夜、最後に服薬してから何時間が経ったでしょうか。午後の陽ざしが部屋に穏やかに差し込む頃だったと思います。私の体はぴくぴくと小刻みに痙攣し始めました。
   実は私は「その痙攣はむしろ増幅して解放してしまった方がいいのだよ」という意見を複数の瞑想家やセラピストから聞いていました。私は徐々に大きくなってくる痙攣をそのまま認め、布団の上に横たわったまま、身体を律動させました。この状態であれば、転倒する心配はありません。なにしろ、初めから横たわっているのですから。
    私の体はバタンバタンと音がするほど布団の上で跳ね上がりました。吊り上げられた巨大な海老が地面でのたうち回っているような状態を想像してみてください。別の譬えをするならば、私はよく揺れる奇妙なジェットコースターに乗って、時空を疾走していくようでした。
    融通無碍の世界から、この変な病気の体に戻ってきたぞ。薬を飲まなければひたすら痙攣を続ける体だぞ。さあ、心はどうか。薬が切れると、自殺したくなってくるのか。ほら、どうなんだ。素の自分はどんななんだ。来るなら来てみやがれ。それが本当なら仕方ない。
   そんなことを考えながら、音をたてて激しく体を波打たせていると、やがて笑いがこみあげてきました。
   なんじゃあ、こりゃあ。なんじゃ、このエネルギーの波は。すごいエネルギーが体に満ち溢れて、跳ね回る。制御不能、制御不能。この生命エネルギーは制御不能だ!
   私はお腹が痛くなるほど笑い、楽しくて仕方がありませんでした。自殺念慮? ネットに書いてあったそれはどこにある? どこに行っちまった? 生きていることは制御不能のエネルギーが暴れまわることだ。止めようがない。どこまでも踊り続ける。この脳はちゃんと制御することを棄ててしまったんだ。だけど、これでは・・・私はなおも笑い転げながら、考えました。おかしくて、おかしくて、笑いが止まらないのです。
    だけど、これではこの世で生活ができない。制御しないと。この痙攣を止めて、ほかの人たちと同じように、食べたり、歩いたり、話したり、寝たり、また起きたり・・・生活というものをしていくには、脳を制御するしかない!
    私はとうとうランドセンを飲むことに決めました。しかし、その時になって気が付いたのですが、ベッドの周りに食べ物や飲み物、緊急連絡用のスマホまで用意していた私は、あのランドセンを手元に置いておくのを忘れたのです。
   ちゃんと生活する気あるのか!? はーん?
   そう思うとまた笑えてくるのをこらえながら、私は赤ん坊のように這い始めました。ランドセンの直してある引き出しまで必死で這っていったのです。ガタガタ音をたてながら引き出しを開け、病院の名前の書いた白い袋を取り出し、震える手で一錠ごとの梱包をちぎり、水も無しにランドセンを二錠飲みこみました。

注 リボリトール(ランドセン)の薬理作用や副作用については私の経験を一般化せず、あなたの主治医とよく相談してください。

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