ボリアモリー

ボリアモリーに関する昔のメモが出てきたので、コピーしておく。

私が20代で弟子入りしたバグワンというインドのGURUのコミュニティでは、はじめのうち、セックスはフリーでした。しかし、AIDSの流行とその正体がまだ不明だった時期にその特徴には急速なストップがかかりました。(1980年代前半。)
今もボリアモリーには一定の可能性を見つつも、いくつかの点で自分の心理や思想には保留がかかります。
(1)性感染症という現実的問題。
(2)子どもをコミュニティ全体の子どもと見る文化が同時に同じぐらい成熟しているかどうか。
(3)あび個人的には相手を本当に愛さなければ相手に感じてほしいとは思わないため、オナニーのオカズにはできても挿入しようとするとさーっと白けるという心理が働く点。
(4)挿入とハグのグラデーションに関する相互理解がどのくらい成熟しているのかという点。(特にハグの文化のない日本ではこのことについて成熟を見てから、さらにボリアモリーに進みたい人だけ進む方が、自然な気が、なんとなくする。)
(5)タントラとボリアモリーの共通性とパラドックス。

いずれにしろ、オープンな性の習慣が相互理解と成熟に至るには、個々人が自己の内面的課題をよくクリアして、健全で自立した精神的主体になっている必要があると思います。逆に言うと、個々人が内面的課題をよくクリアしてさえいれば、一対一の固定的関係であろうと、ボリアモリーであろうと、自己責任で選択して、うまくいくはずであって、形は後から付いてくるものにすぎないようにも思います。そうでなければ、何をやってもぐちゃぐちゃになるだけだと思います。関係ないように聞こえるかもしれないけど、政治的にすら十分自立していず、安倍政権を維持して、亡国の危機を迎えたり、職場でモラハラやパワハラやセクハラが横行しているような個人的成熟度の文化のもとで、日本人が性の大海をうまく泳ぎきれるような感触とか予感は、僕には殆どありません。(^_^;)

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