見出し画像

センタリングとレット・ゴー

facebookのコメント欄に書いたことを、自分が書いたことだけ、ここにもメモっておきます。

手放さないとセンタリングしないし、センタリングしたら無心なんだから、聖道門、浄土門というても、センタリングしなさいといえば聖道門だし、手放しなさいといえば浄土門なだけでは? でも「なさい」は計らいなんで、それが壊れて限りなきはたらきだけが貫く瞬間は同じと思います。

(センタリングって何?と聞かれて)

おなかの中心にけっして力の入らない点があります。古来、ハラと呼ばれてきました。ハラきりのハラです。それはボール大ともいえ、その中に入ると宇宙大ともいえます。とにかくそこに意識を置くことがセンタリングです。が、しようとしてできるのは束の間で、すべて手放したときは、もうそこから外れようがありません。

(次の記事に)

漠然と感じてきたことは、宗教体験を語ることを真宗教団はわりと嫌うということですね。なぜ嫌うのか、教団として意図するところは、神秘体験として自我に取り込むことへの警戒かと思います。が、聞によって限りなきはたらきに照らされ、我が崩壊して、光だけが満ちる二種深信は、紛れもない宗教体験であり、それを欠落させたまま、ああでもない、こうでもないと言うても仕方ないって、ほんまそう思いますわー。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。