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この世に投げ返されて(5)~臨死体験と生きていることの奇跡~

    さらに私はとうとう散文で、その世界を説明することも始めたのです。
 そのように試みることは、実際の臨死体験の全体性をどこか損ねる面があることを私は意識していました。今思えば、回復初期に私が口走っていたうわ言の方が実際の臨死体験のテイストに近い何かだったのかもしれません。
 私は残りの一生を様々なポエジーを通じて、文学や音楽でその全体性を表現しようとし続けるのかもしれません。あるいは、生と死を超えた全体性の表現とは、この世の成り立ち、生業、業縁をも尊重することですから、その仕事の全体像はさらに複雑なものになるのかもしれません。
しかし、今は腹を決めて、なるべくこの世で通用する言葉で、訥々と臨死体験を語り始めましょう。

私の臨死体験は、それまでに私が書物などで読んだことのあるどのような記録とも異なっていました。
書物によく描かれているような長いトンネルや、その先に抜けた場所に広がるお花畑も見ませんでした。トンネルやお花畑のイメージは、クリスチャンを初めとする欧米人の臨死体験にしばしば登場します。キリストそのものや、老人の姿をした人格神に会う人もいます。
あるいは限りなく眩しい光の存在に会う人もいます。光という抽象的なレベルになると、その遭遇は生前の具体的な宗教に左右されることなく、広い地域にわたってやや普遍的に見られるイメージとなります。
また私は三途の川も見ませんでした。川の向こうに、先に亡くなった親類縁者が現れて、「お前はまだこっちに来るな。生きている世界に戻れ」と諭されるようなこともありませんでした。このようなイメージは、やはりこの世の生活の中で、死後の世界についてのそのような物語が日常的に語られる日本のような文化圏の中でしばしば報告されます。
このように、臨死体験で経験される中身が、生前の宗教や文化に影響されたイメージを纏う現象をとらえて、それは脳の作り出した夢に過ぎないのだと論じる人もいます。
しかし、私はそうは考えません。それはその人が筆舌に尽くしがたい臨死体験を語るときに採用した手身近なイメージではあります。具体的なイメージに翻訳(変換)して語ろうとするとき、色も形も音もない五感や思考を超えた世界を、自分の慣れ親しんでいるイメージを借用して表現しようとするのは、仕方のないこととも、至極当然のこととも言えるのではないでしょうか。
あの世そのものがそのような具体的な姿をして「実在している」と考えるのは確かに早とちりなことかもしれません。それなら、多種多様なあの世がそれぞれの人に応じて無数に実在していることになってしまいます。
そうではなく、もっと遥かに具体性を超えた、この世のイメージでは語ることの到底不可能な「源泉」があるのだと考えてみてはどうでしょうか。その多くは心肺停止に陥り、脳が低酸素状態で殆ど機能していないときにこそ、発動するのです。
(後に述べるようにそれでも脳の中の松果体だけはDMTを大量に放出しているのかもしれない。また量子脳論では脳のマイクロチューブルに含まれる量子情報が全宇宙に拡散した状態であると説明される)
その出来事をこの世の言葉に翻訳(変換)し伝えようとするときには、人はこの世にある具体的な脳に戻ってきています。だから、その表現はそれぞれの脳のこの世での経験や業縁に影響されたものになります。だからといって、そのことをもって、脳を超えた共通の「源泉」のようなものは何もないという証拠にはならないのではないでしょうか。表現の多様性と、源泉の超越性は別のものとして考える必要があると思います。

前置きが長くなりました。というわけで、私が語る臨死体験も戻ってきてからの私の脳が描きだしたイメージにすぎないと意識して聞いていただきたいのです。

私の臨死体験。

そこにはただただ広大な宇宙が広がり、無数の星々が集(すだ)いました。それは完全に透明で静かな「永遠の今」でした。
何ものにも碍(さま)たげられることのない覚醒が宇宙の隅々まで行き渡っていました。その覚醒はすべてのものに沁みわたり、貫き、透き通っていました。

(つづく)

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