ちゃんと訳そう般若心経(1)

2016.07.26
ちゃんと訳そう 般若心経

般若心経ロック訳などという名でネットで出回っている次の訳は
ぜんぜん「訳」ではない。
出だしはこうだけど、

超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

これでは
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
という出だしは完全無視である。

まったく別のひとつの作品として
これを読んで楽になるのは自由だと思う。
しかし、これを般若心経の訳だというと
嘘になってしまうと思うのである。
(出だしだけではなく、中身全体が訳になっていない。)

そのほかネットで
この冒頭部分のいろいろな訳を見てみてほしい。

花山勝友訳はこうだ。

観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、

これはロック訳より正確といえば正確だが
行深般若波羅蜜多時

深遠な知恵を完成するための実践をされている時、
と訳しても
深遠な知恵の完成とは何なのかが訳されていないので
深般若波羅蜜多を
深遠な知恵の完成と直訳し
行じし時を
実践をされている時と
直訳しただけである。

またもうひとつの問題は、観自在菩薩を観音菩薩と訳したことだ。
「般若心経」は、玄奘三蔵訳では、観自在菩薩と訳してある。
現在日本ではほとんどの人がこの玄奘訳を用いている。
観音菩薩と訳すのでは、鳩摩羅什訳の趣意をとることになる。

自在に観るというアヴァローキタイシューバラの原意を離れて
慈悲を強調した観音信仰に傾くことになる。
なぜ突然、そのように趣意を変更しなければならないのかが不明である。


瀬戸内寂聴訳はこうだ。

観音さまが、彼岸に渡るため悟りにいたるための行を行う時、

これも観音さまと訳し
玄奘訳から鳩摩羅什訳に趣意替えしたことに意味がない。

また
行深般若波羅蜜多時

彼岸に渡るため悟りにいたるための行を行う時、
と訳したのには、
小説家とは思えないような同語反復があっていただけない。

彼岸に渡る「ため」悟りにいたる「ため」
と「ため」を二度使っているがのが、まどろっこしい。
「行を行う時」の、「行」という漢字の反復もまどろっこしい。
またせっかく「ため」を二度使ったが、
「彼岸」も「悟り」も結局仏教用語のまま訳されていないので
深般若波羅蜜多
とは何なのか、わからない。

さて、ここまでの私の超簡単訳はこうである。

何もかもを自由自在に観てとる菩薩が
この世界の成り立ちをすっかり見通す智慧の修行を
していたとき

観「自在」菩薩は、玄奘訳の趣意を採用して
「何もかもを自由自在に観てとる菩薩」と訳する必要がある。
菩薩を仏教用語でないものに訳すかどうかは迷ったが
正確に訳すには多くの言葉を要するので
まどろっこしくなるより語感をとった。

深般若波羅蜜多
は、
この世界の成り立ちをすっかり見通す智慧
と訳した。

そして、すっかり見通した「世界の成り立ち」を具体的に解説していくのが、
般若心経の次の行からである。

その智慧の修行をしていたとき
何を観てとったのかが、般若心経の中身である。

最初をこう訳しておいて
そのとき、何をどう観てとったというのかを
具体的に訳していかなければ、訳にはならない。

何もかもを自由自在に観てとる菩薩が
この世界の成り立ちをすっかり見通す智慧の修行を
していたとき

そのときに
何を観てとったというのか、それを現代日本語で簡明に訳したのが
私の超簡単訳 般若心経である。


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