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蝶の降る星 (12)(13)

12

 愛海は裕仁の前で全裸になり、所在なく突っ立っていた。他の女たちのように体をやや斜めにし、足を前後に交叉させて腰に手をあてるといった「美の定型」を学んだことなどなかったから。
 それでも裕仁は満足そうに飽きずに愛海の体を眺めていた。頭の先からつま先まで、何度もねめ回すようにして、裕仁は視線を走らせた。
 「青い果実とはこのことや。たっぷりかわいがったるで」
 全裸の女のひとりが、水差しからガラスのコップに透明な液体をそそいだ。そして
 「さあ、あんたも飲み」と言って、愛海に差し出すのだった。
 「お酒ですか?」
 愛海がきょとんとした目をして尋ねると、女は一瞬驚いたような顔をして、それからやおら笑い出した。
 「ほんまに何も知らんの?」
 「私は今日、メガロポリスに着いたばかりなんです」
 女たちの間にざわめきが波のように走った。
 「これはなあ、気持ちよくなる薬や」
 「気持ちよくなる薬・・・麻薬のようなものですか?」
 「そうや。有頂天という名前の漢方や。まあ、飲んだらわかる」
さあ、と差し出されたそのコップを愛海は受け取らざるを得なかった。
 「さあ。そんなけぐらい、一気飲みしいや」
 女が上から目線で言うと、愛海の中には小さな反抗心のようなものが目覚めた。愛海は「こんなもの!」というかのごとき態度でその透明な液体を一気に飲み干した。
 微かな苦みが舌に残ったが、まずいというほどではなかった。
 「愛海。今日はおまえがここや」
 裕仁は自分の右隣に座っていた鍛え抜かれたダンサーのような美しい肢体をした女性を邪魔者扱いするように掌で追いやると、スペースを用意した。
 「ここへおいで」
 「はい」
 先ほどまでそこに座っていた女の大きなお尻の形の窪みがゆっくりと元に戻ろうとしている柔らかいソファのその場所へ愛海は腰掛けた。
 ふわっと自分の体が空中に浮かんだような感触に襲われた。ソファの柔らかさだけではなかった。先ほど飲み干したばかりの「有頂天」が、早くも身体に廻ってきているのだ。
 裕仁の厚い手が愛海の背中から肩へと廻ってきた。その手もまたマシュマロのように柔らかく感じられて、愛海の肩に溶けて沈みそうになった。
 「若くてええ体や」
 言うと、裕仁は愛海の両肩をとって自分の方を向かせた。
 その間も裕仁の左隣の女は自分の大きな乳房を、彼の背中に擦りつけて「ああ。ああ」と声を喚げている。他にも裕仁の足下から膝にかけて左右ひとりずつ全裸の女がまとわりつくようにして体を擦りつけている。
 よく見ると彼女たちはてらてらとよく光るオイルのようなものを全身に塗りつけているようであった。そうやって全身で裕仁の体を愛撫し続けているのだ。
 裕仁は彼女らにはそういった奉仕をさせ続けたまま向かい合った愛海の乳房を両手でつかんだ。広げられた指の間から、愛海の乳房が零れ出る。裕仁が指にぎゅっと力をこめると、その手は愛海の乳房に沈み込んでいくように見えた。「溶け合う」という表現がふさわしいだろうか。
 「おお、かわいい。かわいい」
 裕仁はそう言いながら、今度は愛海の背中に手を廻し、ぎゅっと抱きしめた。ひとりの女がそんな二人の体の上に水差しからオイルを垂らしている。オイルは二人の体の隙間を滴っていったはずであった。
 だが、すでに体と体が溶け合っているように感じている愛海にはそれが自分の体の内部を流れていくように感じられた。
 愛海は学校で知り合った男子と何度か性の交わりを持ったことがあった。しかし、ゴールドのために大人の男性と交わりまで進むのは初めての経験だった。
 愛のないセックス。にもかかわらず、それはあまりにも特異な体験となった。
 裕仁が愛海の体中を舐め回したあげく、屹立したものを挿入してくると、愛海は自分が光の海に溺れているように感じた。
 行為の後、愛海は自分が何時間も光の海をたゆたっているように感じていた。あるかなきかの海流が愛海の体をゆっくりと運んでいるようでもあった。
 どこへ?
 ゆっくりと「有頂天」の効果が薄れてくると、愛海はそれはどこへも繋がってはいないことに目覚め始めた。ただただ小さな輪を作っている流水プールの中をグルグルと経巡っているだけだ。 
 先ほどまであれほどまでに広大な光の海と感じられていたものが、おもちゃのようなプールの仕掛けであると知ったとき、愛海は大きな落胆に見舞われた。
 「気ぃ、ついたんか」
 たくさんの女たちがだらしなく、ソファやベッドで全裸で横たわっている部屋の中、裕仁がソファの上で体をもたげて愛海に話しかけた。
 「有頂天というのはなあ、いつか、終わるもんや。初めからそう決まってんねん。まさしくそれを有頂天というんや」
 真面目な顔をして語る裕仁は少し悲しそうですらあった。
 「今日はおおきに。さあ、このゴールドを持って帰り」
 愛海は大きく目を瞠いた。裕仁が愛海に差し出したのは、ゴールドの粒ではなく、それが千個集まって構造化されたキューブであったから。
 一回の情事でこのキューブを? 愛海の育った田舎と、メガロポリスではあらゆる事象が桁違いなのだった。
 「おおきに」
 愛海は覚えたての大阪弁でそう答えるとぺこりと頭を下げた。そして、ゴールドのキューブをバックパックに仕舞った。
 愛海は、自分の衣服を探すとそそくさと身にまとい、駆けるようにして部屋を後にした。

13
 
 迷路のような高層ビル群の中、愛海は元来た道を辿った。摩天楼の隙間の狭い空には殆ど星が煌めいていない。替わりにビル群の無数の窓に灯りがともっている。
 宇宙本舗の前にまで戻ると愛海は愕然とした。木彫の看板に宇宙本舗と彫り込まれたこの店舗であることには間違いないのだが、そこには銀幕のシャッターが下りていたのだ。
 「後で戻る」と言ったのに。
 愛海は辺りを見渡し、隣の敷地との境近くに、インターフォンを見つけた。
 急いで呼び出し音を鳴らす。反応がない。しばらくしてもう一度鳴らしてみる。やはり反応がない。諦めてバックパックを担ぎ直し、今夜の宿を探しに行こうと踵を返した。
 そのときやっと、愛海の背中に向かって、インターフォンのマイクが今井麻衣の声を発した。
 「愛海やな。よう戻ってきたな」
 「はい。あの。もう少しお話したいことがあって」
 「今、シャッターを開けるさかい、店に入っといで」
 麻衣がどこかで操作ボタンを押したのであろう。シャッターは、シュンと音をたてて、一瞬にして幕を開ける。ガラス張りの店内は真っ暗だ。だがやがてそこに眩しいばかりの灯りがともった。
 店舗の奥からドアに向かって、麻衣が歩いてくる。麻衣が自らの指紋をドアに翳すとガラス戸が左に滑って開いた。
 愛海は店舗に踏みいると何故か麻衣に抱きついてしまった。そうやって初めて、自分がいかに不自然な状況の中で圧倒的な恐怖に耐えていたのかが実感として湧いてきた。
 肩が小刻みに震えた。
 「怖かった」
 愛海は呟いた。
 「よう、がんばったな」
 「私、私、ひとりだと思っていたの。しばらくの間、体を無感覚にしていれば、セックスなんてなんでもないと思ったの。そうやって生きていくしかないと思っていたし」
 そう述懐する愛海の背を麻衣は軽く叩いた。
 「そしたら、一人じゃなくて、女の人がたくさんいて」
 「ほお。大富豪なんやな。よう見初められたもんや。なんという人やった?」
 「根本裕仁」
 愛海がさっき彼女を蹂躙した名前を言うと、麻衣は瞳を大きくした。
 「なんちゅうことや。そいつは別名、北極星。システムの中でこの極東の人々を束ねとるやつや。束ねとるいうても、しょせん西の大国の傀儡にすぎひんけどな」
 「カイライ?」
 「ああ、操り人形っちゅうこっちゃ。で、北極星やったら、あれやろ、有頂天も飲まされたか」
 「うん。うん。なんだか、体がふわふわする飲み物を飲まされた。そしたら、なにがなんだかわからないほど気持ちよくなって・・・・。でも、ふと気がつくと箱庭の中で遊んでいた夢から覚めたようだった。・・・・とにかく、私、何もかもよくわからない」
 「それはそうやろ。殆どのもんは、なんで生まれて、なんで死ぬのかもようわからんまま、システムに飼い慣らされて搾り取られて死ぬだけや」
 「私もそうなるしかないんですよね」
 「それはどうやろか? まあ、こっち来て座りいな。今おいしい台湾茶でも淹れような」
 麻衣は再びドアに鍵をかけるとシャッターを閉めた。そして愛海を店舗の奥の応接室に誘ってくれた。
 その応接室の、愛海の腰掛けたソファは裕仁の部屋のような不自然な浮遊感はなく、しっかりと包み込むように彼女の体をうけとめた。
 「この器を見てみ」
 麻衣は運んできた茶碗をテーブルに置く前に愛海に手渡した。ずっしりとした重量感のあるその茶碗の底には木の葉が一枚焼き付けられていた。
 「その木の葉はなあ。あんたが興味もってるあのサトリという蝶が好んで卵を産み付ける葉や。この茶碗はそれを器の底に焼き付けてある。匠の技や。普通は木の葉は焼けて縮れて形を失う」
 愛海は茶器の底のそのどこにでもありそうな木の葉を見つめた。
 「確かに、これが焼き物なら、木の葉を焼いてしまわないってすごく難しい技術のようですね」
 「さあ、ここからがマジックショーや。器をテーブルに置いて」
 愛海は言われたとおり、テーブルの上に茶器を置いてまだ覗きこむように木の葉を見つめていた。
 「そこにこの台湾茶を注ぐと・・・・」
 言いながら、麻衣は先ほどから白い急須で煮出されるのを待っていた茶を器に注ぎ込んだ。綺麗な黄金色のお茶だった。
 「見てみ」
 麻衣に促されて、愛海がもう一度その茶器をのぞき込むと、さっきまで底に焼き付けられたように見えていた木の葉の先が、ふわりとめくれ上がり、茶の中に浮かんで見えた。
 「うわ、不思議」
 愛海は無邪気な声をあげた。
 「不思議という言葉はなあ。正しくは不可思議っていうねんで。人間の頭では説明がつかない、考えることもできないことを不可思議っていうんや。そやけど、ほんまはこの世界はなあ、殆どすべてが不可思議や。それを全部システムの中に閉じ込めてしまおと思ったとき、人間は間違った道を歩みはじめたんや」
 麻衣もまたそんなことを幼い少女に説きながら、めくれ上がる木の葉の先をうっとりと眺めているのだった。


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