パラサイトを超えて(ジェンダーの視点から 5)

パラサイトを超えて(ジェンダーの視点から 5)

(この雑誌連載は同じお題で男女の執筆者がジェンダーの視点を踏まえて書くという企画で、僕は男性側の執筆者でした。本来ふたつ並べる企画ですが、もうひとりの執筆者の原稿は僕に著作権がないので、男性側だけnoteに載せています。この回のお題は「パラサイト」でした。)

 三年間のアメリカ暮らしを終えて東京に降りたったとき、異様な光景が目に飛びこんできた。街を行く人々が、無数の蟲の群に見えたのだ。蟲たちはうごめきながら互いの体の上に、我さきにと、よじのぼろうとしていた。だがその争いには勝者がないようだった。蟲の群は互いの体をよじのぼって上昇しているつもりでいながら、その全体がどうしようもなく奈落の底にくずれ落ちていくのだった。めまいのするようなそのヴィジョンは、僕の胸に長く残った。

経済的に豊かな親に、成人後も依存したままでいる「パラサイト」が問題になっている。が、それは特別な個人に起こっている現象というよりも社会全体の構造に組み込まれた問題かもしれない。現在の熟年世代が築いてきた経済的繁栄(?)に社会全体が寄生している。実はその繁栄にはもう限界が見えているというのに、まだまだもっとむさぼり食らおうと群がっているのが、私たちだ。

さらにグローバルに見るならば、戦後日本の経済は、世界支配を進めてきたアメリカ経済にパラサイトしている。巨大なマッカーサーの隣にちょこんと昭和天皇が立っている有名な写真があるが、あれがその関係性を象徴化している。日本はアメリカの忠実な妾である。

ではアメリカは自立しているのか? いや、このどうしようもない「父権の怪物」は、自分では世界を支配しているつもりでいるのかもしれないが、実のところ、最も依存的な性質を持っている。世界中の人々に、そして「母なる」地球の自然そのものに寄生している。

寄生虫の最も愚かな点は、やがて母体そのものを死に至らしめるところだ。地球が屍になる時、肛門から逃げ出すサナダ虫よろしく、人類は地球から脱出するつもりだろうか? サナダ虫に形の似た幾本もの白いロケットが出発するSF的光景が目に浮かばないでもないが、それはあまりにも非現実的であろう。

私の考えでは、我々が「母なる地球」に生きているという見方そのものが、人類を男性になぞらえた上で、甘えと支配を同時に肯定してしまうものだ。もともと人類も含むすべての生命は、関係性の網の中に対等な存在としてふくまれている。我々のひとりひとりが、「両性具有な地球生態系」の一部であり、ある意味では地球生命そのものなのだ。

地球生命体に「ガイア」という女神の名前を付したラブロックは、その出発点においてジェンダーを超えることに失敗した思想家ではないか? 地球に女性を投影してしまうと、自我は男性的な存在となってそこから分離してしまう。彼の原発や神道に対する甘い見方もそのひとつの帰結と考えることができる。

真の意味で「パラサイト」を超えていくには、「母胎」と「我」という二元論そのものを根底から疑うことであろう。「個であると同時に陰陽の螺旋ダンスそのものである私」を生きることは、成人後も親に依存している人たちだけの問題ではなく、私たちひとりひとりの課題なのだ。

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