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全肯定ソングの研究

全肯定ソングの元祖はビートルズのLet it be だと思っている。

ここでは、僕が若い時に同時代的にライブなどでなじんでいる上々颱風のカバーを紹介しておこう。


それが一回屈折するのは、ミスターチルドレンの「名もなき詩」だと思う。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬまに築いていた自分らしさの檻の中で
もがいているなら
誰だってそう
僕だってそうなんだ

ビートルズは「あるがままに」と歌い
ミスチルはそうできない自分の弱さをそのまま歌にしたということができる。


これは浄土教の歴史を学んだ僕から見ると
法然と親鸞の関係に似ている。

僕が学部の卒論で書いて後にリメイクして白山市の暁烏敏賞を受賞した
「念仏もうさんとおもひたつこころ」から引用してみたい。

前半

http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkasportbu/bunkasinkou/akegarasu_sho/ronbun/1-10/S63-1honbun.html

後半(1ページの上に戻って2をクリックでも可)

http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkasportbu/bunkasinkou/akegarasu_sho/ronbun/1-10/S63-1honbun_2.html

白山市のスタッフの校正能力の低さには呆れるばかりで
このネット上のバージョンは読むに堪えないが
今引きたい該当箇所はこうである。

(引用開始)

賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。

 ここで親鸞の徹底的な懺悔道へと至る過程を、段階を追って整理してみることにしたい。
  まず、出発点としては、内も外も共に賢であることを心がけるのが至当である。そのための仏道であり、修行であるのだから。
 ところが、道を歩めば歩むほど、この「内賢外賢」の立場は、到底実現しえざるものであることが明らかになってくる。
 そこで現れるのが、法然の言う「もし内を翻じて外に播さば、また出要に足んぬべし」という「内愚外愚」の立場である。
 けっして心の底から「賢」であることのできない自分の姿を偽らないこと−−そうであるほかない自分をはっきりと見、人にもそれを知らしめること。そのことによってもまた出離の道にかなうというのである。
 しかし親鸞はさらにこの「内愚外愚」の立場にさえ徹しきれない己を「内愚外賢」と告白したのである。
 「私は、自分が本当に愚かであることをどうしても認めきれず、いつも外側を飾らずにはおれない。」と。

(引用終わり)

法然はあるがままに生きることを説き、親鸞はそうできないで飾ってしまう自分を見つめている。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている

である。

しかし、J-popの世界で、これをもう一回ひっくり返したのは、ウルフルズではないかと僕は思っている。

「ええねん」は、全肯定ソングの原点に還った名曲である。

 離婚前、まだ子どもが小さくてポリシー曲げて僕もテレビを見ていた頃、ある夜のミュージックステーションでウルフルズが「ええねん」を歌った。

 そのとき、別の歌で出演していたミスチルの桜井が、歌い終えて席に戻ってきたトータス松本に「いやあ、よかったです。オレって何をごちゃごちゃ歌っているんだろうなと思った」と言った。
 へえ、わかってるんや! 

 ちなみに、皆さん、僕も自分が何をごちゃごちゃ書いてるんやろーなってわかってるよ。(;゚ロ゚)

 で、松本はそんな桜井に「また、飲みにいきましょう」とだけ言った。

 いやあ、これは名シーンだったなあ。

 だけどまあこれまた色々な意見がある。
 ミスチルみたいに一回屈折したところもぜんぶ見せてくれないと救済されない人もいるとか。
 「ええねん」は全肯定について、やや強迫観念的なところまで走っている。否定的契機に欠けるし、ビートルズとは違う。
 などなど。

 で、結論から言うと、僕は、J-popの全肯定ソングの中では、ザ・ブルーハーツの「泣かないで恋人よ」が一番好きだな。

 あきらめきれぬことが あるなら
 あきらめきれぬと あきらめる
 あきらめきれぬことが あるなら
 それはきっといいことだ


 まあ、そういうわけだ。

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