【僕が挑戦し続ける3つの理由】

〈1.自分が想像出来ないところにいってみたいという好奇心〉

僕は来年を想像したときに「わからない」と答えることがよくある。

それは純粋に何も決まっていないから「わからない」という答えと共に「わからない」ことにワクワクする習性がある。

決まりきった予定調和なことに束縛感を感じてしまう。

高校生でブラジルに行ったときも、サッカーが上手くなりたいっていう思いも確かにあったがそれ以上にまだ見たことのないブラジルという国に興味があり、未知の世界だからこそ自由に自分を想像できたことが最高に楽しかった。

好奇心は想像力だ。

こうなったらいいな。あーなったらいいな。そんな想像を掻き立てる好奇心こそ挑戦者に必要なことだと僕は思っている。

となると、自然と同じことを繰り返す生活には絶対飽きるはず。
成長や進化があるから好奇心も倍増する。

進化なき継続は存在しない。

〈2.自分にはできないことだらけだという劣等感〉

あーなりたい。これしたい。っていう好奇心と同時にそれにトライした瞬間に「できない」という壁にぶち当たる。ここで問題は壁にぶつかることではなくぶつかった時に芽生える「劣等感」だ。

僕は基本、自分が好きなことに関しては諦めるという概念がない。

どんな状況になろうとやり切りたいと思っている。

劣等感とは辞書で調べると「自分が他人に劣っていると感じること」と書いてある。

世間一般で言うとあまりいい意味で使われていないが、僕にとっては挑戦者の必須条件とも言える。

没頭、没入、夢中になり周りが気にならないくらい自分の人生に熱狂すると同時に、どこかで誰かと競っている自分が必要な時がある。
これは人と比べるとは違う。比べるは結果としてで、競うは正に隣のレーンを走っている走者との戦い意味する。

自分の人生は唯一無二だが、自分が軸足を置くジャンルには、自分より優れた人が必ず存在する。

そんな存在に「劣等感」を感じることにより「怒り」というエネルギーが生み出される。

他人の人生に興味はないが、自分にできないスキルや思考にはエラく興味が湧く。

それを僕は劣等感と呼んでいる。

〈3.社会に対する怒りが原動力〉

僕は普段そこまで怒ることはない。

それは、本当に「怒り」を向ける場所を知っているからだ。

僕らは今を必死に生きている。

でも、それを邪魔するバカな大人がたくさんいる。

子どもの可能性を大人の都合で潰すバカな指導者や先生という立場を利用して子どもたちを思い通りにする大人、そしてバカな親だ。

子どもたちは才能の塊だ。

それは全ての子どもたちに言えることだ。

その才能とは若さだ。

若いうちにたくさん行動させて思考させて、進みながら考えることをさせてあげればいいのに、何故か「迷わそう」とする。

あたかも自分が答えを知っているかのように子どもを自分の人生の迷子にさせていく。

僕はこういった大人が嫌いだ。
そういった大人を作った社会も嫌いだ。

そこには間違いなく怒りを持って挑みたい。

社会に声を届かせるためには、声に力が必要だ。

それを僕は「挑戦」という姿で身につけていこうと戦っている。

僕は「怒り」をエネルギーにして「今に見てろよ」って世の中にファイティングポーズを取り続けていく。

一生懸命に戦おうとする人の足を引っ張り、その人が失敗でもした日には鬼の首でもとったかのようにドヤ顔をする。

そんな社会に閉塞感を感じている。

「失敗を否定せず、チャレンジを応援する社会」

それを作るためには、可能性を潰しまくってる大人とその大人があぐらをかく社会をぶっ壊さなくてはならない。

そのためには、怒りは必要不可欠なのだ。

僕の挑戦は始まったばかりだ。
いつだって、どこにいたって、なんだってできる。

衝動にかられるように動き回る。

サラリーマンだろうが、Jリーガーだろうが、公務員だろうが、誰にだって自分のために自分の人生を生きる権利がある。

むしろそれ以外の権利なんて存在しない。

誤解して欲しくないのは「自分のために」とは「自分さえ良ければいい」ということではない。

その人、本人が自分のために本気で生きれば自ずとどこかで誰かのためになる。

だから「自分のために」が必要なんだ。

僕の挑戦は自分のためのものだ。
ただやりたいからやる。思いっきり生き抜くことこそ自分の人生に背を向けない唯一の方法だと思ってる。

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Abi

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