アスリートのキャリア問題について Part1
この時期になるアスリートの引退が話題となる。
引退とはその名の通り「現役から退くこと」とされている。
余命を迎える瞬間とも言えるだろう。
本来の意味の余命であれば悲しい出来ごとではあるが、アスリートの引退は華やかであって欲しいと思う。
今まで以上に華やかなキャリアの始まりであってほしいと…。
さて、
このキャリア問題を語るにあたり欠かせないことはそもそもアスリートとは何か、プロフェッショナルとは何か、アマチュアとは何かという点です。
アスリートとはギリシャ語が語源で「賞を求めて競う者」とされている。
プロフェッショナルは何かというと競技に参加することを職業とし、それで生活の糧を得る(お金を得る)人のことを指す。
アマチュアは愛好家、愛する人という意味で、もともと基本的には、競技以外にしっかり本職をもっていて、競技を生活の糧を得る手段に使わず純粋にそれを愛好する人のことを指す。
もっというと、アマチュアとはジェントルマン階級で、プロフェッショナルは労働者階級を指す。プロはあくまでもアマチュアの奉公人であり、同じピッチ上でプレーしていても「スポーツマン」とはみなされず、競技場の出入り口や更衣室、食事の場も差別されていた。ジェントルマンはスポーツに加え、ダンスや演劇活動など多方面で楽しみを享受する人たちであり、プロのように一芸に秀でる必要はない
、と記されている。
この定義でいけばJリーガーはアスリートであると同時にプロフェッショナルである。
要するに賞を取るための労働者である。
(これでいうとオリンピアンの定義は少し難しくなる)
そしてそれは余命のある職業と言える。
そもそもの定義と比べると今ではプロフェッショナルの価値が上がったように思えるが、
プロフェッショナルをすごいものだと捉えるより、それしかなかっと考えることも必要なのではないか。
もちろん、それしかなかったという希少価値がその人の人間性と相まって余命後でもその価値を使い、プロフェッショナルを続けることもできる。
しかしそれは非常に限られた人だけに与えられた特権とも言える。
アスリートでプロフェッショナルでいることはある種の強制力が働く。
それは「賞を求めなければいけないと同時に労働でなくてはいけない」ということ。
賞を求めつつ労働としても成立させなければならない。このプレッシャーの中で自分を保たせるためには、ある種の思考停止状態が必要だ。
余命がある「選手生命」の中で思考停止になると確実に世の中との乖離が生まれる。
では、そんな厳しい環境の中で手に入れられるものは何か。
「……」答えを出せる人はいない。
なぜなら、プロフェッショナルを極めれば極めるほど「生活の糧」がより鮮明に浮かび上がる。
気がつけば、生活のためのプロフェッショナルへと姿を変えてしまう。
アスリートのセカンドキャリアをビジネスにしたい方にはわかってもらいたい。
根本的なアスリートの気質と生活がその人のステイタスを表しているということ。
その上で、キャリア形成を伝えていかなければ、アスリートからの理解を得ることは非常に難しいし、セカンドキャリアと呼ばれている社会問題を解決することはできない。
だから僕はそもそもの定義を変えていく。
「ことわざなんて、それを人に信じ込ませたら自分が得する昔の人が作ったポジショントーク」
と堀江さんは言っていた。
だったらその定義ごと変えてしまおうではないか。
僕にできるのは、アスリートの定義を変え、プロフェッショナルの定義を変え、アマチュアの定義を再認識させることだ。
次回は、上記について書いてみる。
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