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どらいふらわ〜 考察

※おいしくるメロンパンの歌詞分析と考察をテーマに書いた自身の卒論から「dry flower」の箇所だけそのまま抜き出してきました。
論文ということもあり、堅苦しい文をそのうち読みやすく修正するつもりではいますが、おそらくこのままの可能性が高いです。非常に読みにくいです……。他の歌詞考察もいつか載せることができたら良いなと思っています。
各位、お手伝いやご意見、応援など本当にありがとうございました。


第2節 dry flower

  dry flower

    充分寝た
    もうサイレンが
    空っぽな五時を迎えに来た
    僕を溶かしたバター
    塗りたくったこの部屋
    戦争映画鳴らす隣人
    目眩を打った銃声
    煮える残暑の刹那
    世界の終わりみたいな赤

    寂しくなったら
    きっとそれすらはしたない
    あなたを待っても
    ずっと遠い日の花火なのでしょう

    染まり続ける翠の扇動に
    疲れ果てても
    まだあなたの横顔は美しい

    この想いはまるで
    散らずに枯れた紫陽花のようだ    
    死期を待つ約束だけが僕を歩かせる

    次の季節へ

    戦争映画は鳴き止んでいた
    塩素の匂いは
    空白を塗りつぶしてくれた
    秒針の怒鳴り声もさ
    いつからか愛おしく思えていた
    戦争映画は鳴き止んでいた
    静寂の中
    浮かぶ船の帆は靡かない
    思い出にすらなれない夏は
    永遠になった

    誄歌のようなヒグラシの声に眠る

    寂しくなったら
    きっとそれすらはしたない
    あなたを待っても
    ずっと遠い日の花火なのでしょう

おいしくるメロンパン「dry flower」

 この節では「hameln」の3曲目に収録されている「dry flower」の考察を進める。この曲の登場人物は「僕」と「あなた」である。この2人は前の節の「水葬」で登場していた「僕」と「君」だと考えられる。「僕」はそのまま「僕」と表す。「あなた」であると考えられる「水葬」の「君」は、この曲で使用されている二人称に伴い、以降は「あなた(君)」と表す。「dry flower」にはMVがないため、曲調や歌詞、「水葬」の関連する表現から分析をする。「dry flower」は「水葬」と同様に「僕」視点で進行すると考えられる。そのため、眠りから「充分寝た」と目を覚ましたのは「僕」だろう。「dry flower」のイントロは、印象的なギターリフから始まる。一定のリズムの安心感の中に、ざわめきや懐かしさを感じさせるような曲調である。約23秒ある間奏の後から、1番Aメロに入る。

    充分寝た
    もうサイレンが
    空っぽな五時を迎えに来た

 サイレンとは、時報や警報、信号などのために音を鳴らす音響発生装置、または、その装置から出る大きな音を指す。サイレンは英語「siren」からの外来語であり、ギリシャ神話の魔女siren(セイレーン)の名前に由来している。漢数字で書かれている「五時」が、朝5時と夕方17時のどちらなのかについては明確な描写はない。実際、友人の中には「朝の5時だと思っていた」と考えていた者も「17時だろう」と捉えていた者もいた。私は、朝焼けと夕焼けの違いから「空っぽな五時」を夕方の17時だと考えた。まず、朝焼けと夕焼けの空の色の見え方から時間帯を考察する。太陽の光をつくっている様々な色の光は、それぞれの波長を持っている。空の色は、目に見える光の波長の長短によって変化する。光は波長の長い順に、「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」である。波長が短いほど、光は散乱しやすく、長いと散乱しにくい。散乱とは、太陽の光が地上に届くときに、光が大気中の窒素や酸素の分子にあたって散らばることである。波長が短い藍や紫は、大気の高所で吸収され目に見えないため、特に散乱しやすい色だ。したがって、青い光が他の色より強く散らばり広がることで、昼間の空は青く見える。そして時間が経ち夕方になると、太陽が傾き、真上から地平線の方へ遠ざかる。その結果、光が大気中を進む距離が昼間より長くなることで、目に届く前に青い光が散乱しきってしまい、波長が長く散乱しにくい黄色や赤色が目に届く。このことから、朝焼けと夕焼けはそれぞれ空の色の移り変わりに違いがあると分かる。朝焼けの場合は東の空の色が赤く染まった後オレンジに変わり、黄色になった後、次第に青色へと変化する。そして、夕焼けは昼間の青から黄色、オレンジから最後は赤へと変化している。この違いを基に、後の歌詞の「僕を溶かしたバター 塗りたくったこの部屋」と「世界の終わりみたいな赤」、そしてその順番から「五時」を17時だと考えた。これらの歌詞はどちらも空の色を表現しているのではないだろうか。「僕を溶かしたバター」はバターの色から黄色、「世界の終わりみたいな赤」は赤色と捉えることができる。また、歌詞の順番は「僕を溶かしたバター 塗りたくったこの部屋」の後に「戦争映画鳴らす隣人 目眩を打った銃声 煮える残暑の刹那」を挟み、「世界の終わりみたいな赤」と続く。このことから、歌詞とその順番は「dry flower」の中で時間が進み、空の色が黄色から赤色に変わったこと、そしてその様子は夕方「五時」の夕焼けを示しているのではないかと考えた。加えて、歌詞の「煮える残暑」から「dry flower」は夏の盛りを過ぎた時期であることが推測できる。夏に比べて日没が早まっているのではないだろうか。「煮える残暑」と「世界の終わりみたいな赤」がセットになっていることから、夕方になっても暑さが残る状況を思い浮かべることができる。
 それでは、「空っぽな五時」の「空っぽ」には何が込められているのだろうか。私は1日の多くを睡眠に費やしてしまった後悔が込められているのではないかと考えた。夕方に起きた「充分寝た」からは、「僕」が眠りについた正確な時間は分からずとも、睡眠に費やした時間が短くないと読み取れる。「五時」の前に「空っぽな」を加えていることから、「僕」はこの17時の起床を好ましく思っていないのではないだろうか。「空っぽ」の言葉自体も比較的ネガティブなイメージが強い言葉だ。17時に起床した場合、日付が変わるまでに残されているのは、残り7時間程度しかない。これらから、1日を睡眠で消化し何もできなかった後悔を含んだ「空っぽ」だと考えることができる。ここで鳴ったサイレンは、おそらく夕方の時報だろう。「サイレン」の音を、ただ「鳴った」や「聞こえた」ではなく「空っぽの五時を迎えに来た」と表すことで、「僕」が今の自身の状態を停滞しているように感じていると読み取ることができる。

    僕を溶かしたバター
    塗りたくったこの部屋

 本稿では「僕を溶かしたバター」は空の色の表現だと捉えた。この箇所では、なぜそのように捉えたのか、「僕を溶かしたバター」とは何かについて「水葬」の「僕だけを残し 空になった水槽 金色の朝の中」との共通点や関連性を踏まえて考察を進める。これらの歌詞に関連性があると考えた最大の理由は、「バター」の黄色、「金色の朝」の金色と、似た色が登場する点である。そして、「僕を溶かしたバター」とは、かつて「水葬」で「僕」を包み込んでいた「金色の朝」の朝日のことを示唆しているのではないだろうかと考えた。朝の日差しの強さや、朝日によって変化した水滴の色の2点から解釈を進める。まず、「水葬」の朝の日差しが溶けそうな暑さであったことを表している場合について考える。「水葬」は夏の出来事だ。黄色に似た色である「金色の朝」から、東の空が赤く染まる日の出から多少時間が経っていると分かる。日中と比べていくらか涼しい朝とはいえ、日の出から時間が経つにつれ気温は高くなるだろう。「僕」は夏の朝の強い日差しを浴びた自身のことを「溶かされた」と考え、朝日やその日差しを「僕を溶かしたバター」と表したと考えられる。次に、「水葬」の「僕」の状態と、水滴や水たまりが朝日によって色が変わって見えたことを表している場合について考える。「空になった」で水が抜けたことが表現されているものの完全に何もなくなったのではなく、プールの底には水たまりや水滴などが残っている状態だろう。また、「水葬」の後半では「僕」がプールに飛び込み溺れかけていたと考察した。溺れかけたことで体力も消耗をしていると推測できる。びしょ濡れの「僕」をこのように「溶かした」、つまり体力を奪った原因は、溺れた原因であるプールの水である。「僕」が「金色の朝」でプールの底にいたときは横になった状態であったのかもしれない。ぐったりと横たわる「僕」の状態や、「僕」の身体にまとわりつく水滴や水たまりが金色の朝の光に染まっていることを「僕を溶かしたバター」と表現しているのではないだろうか。「dry flower」で「バター」と表現されている光は「金色の朝」のような朝日ではなく17時の夕日だ。それでも、「僕」にとっては、あの「水葬」の日に「僕を溶かしたバター」の色と似ていると感じたと考えられる。暑さが残る時期であることや、起きたばかりの「僕」がおそらく寝転がった状態であると考えられることも、部屋に差し込む光を「水葬」と重ねたことに繋がったのではないだろうか。
 そして、「塗りたくった」から、部屋の全体が夕日に染まったような状態であることが分かる。歌詞に「バター」が使われているため、「染まる」ではなく「塗る」と表現されているのだろう。「塗りたくった」は、むやみやたらに塗ることや、べたべたと塗ることを指す。「塗られた」ではなく、「塗りたくった」が使われていることから、夕日の色が濃いことや、綺麗では終わらない不気味さを孕んでいるように感じ取れる。おそらく、「僕」にとって「水葬」のことが思い浮かぶようなこの夕日は、単に美しいと思えるだけのものではないのだろう。
 この箇所で取り上げた「バター」と「金色の朝」のように、「dry flower」に登場する歌詞で「水葬」と関連しており、「僕」がまだ過去に囚われているのではないかと考えることができる箇所が複数ある。次の歌詞の考察に進む前に、その例として前の箇所の「サイレン」と「空(から)」について取り上げる。まず、「dry flower」の歌詞「サイレン」の語源であるセイレーンは、美しい歌で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる海の魔物である。水が関係する死をもたらすものが語源である言葉は、かつて「水葬」で「あなた(君)」が溺死した出来事を彷彿とさせる。加えて、「水葬」で「あなた(君)」がなりたいと願っていた「鯨」も、セイレーンのように海に生息する生物だ。次に、「空(から)」について取り上げる。両曲で関連性があると考えられる歌詞として「水葬」の「僕だけを残し 空になった水槽」と、「dry flower」の「空っぽの五時」を挙げる。「水葬」は「空になった」プールサイドで終わりを迎えた。その時点では「あなた(君)」はすでに死亡していると読み取れる。加えて「dry flower」は「あなた(君)」が死亡した後のストーリーである。これらの歌詞には、「僕」だけがいて「あなた(君)」がいない点が共通していると考えることができる。サイレンの音で目を覚ました「僕」は、「水葬」を思い出してしまうような夕日を見て、「あなた(君)」はもういないのだと喪失感を抱いたのではないだろうか。「空っぽ」には、空白の多い時間以外にも、「僕」の心が埋まらないことを意味していると考えることができる。このように「dry flower」と「水葬」の間に多く見つかることは、「dry flower」が「水葬」の後日談であると同時に、「僕」の中で「水葬」が未だに忘れられない出来事であったことを示しているのではないだろうか。「サイレン」が迎えにきたのは時間だけでなく「水葬」に囚われたまま動けない「僕」であったのかもしれない。

    戦争映画鳴らす隣人
    目眩を打った銃声
    煮える残暑の刹那
    世界の終わりみたいな赤

 「僕」に音が聞こえていることから、隣人の設定している音量が大きいと分かる。音として届いてはいるものの映画の内容までは分からない状況や言葉として認識をしていないことを、なにか音が「鳴っている」と表現したと考えられる。
「僕」の「目眩」はおそらく寝すぎた弊害か、このタイミングで寝具から起き上がったことによってもたらされたのではないだろうか。「打った」は、目眩によって視界や思考などがぐらぐらと定まらない中でも、映画内の銃声が鋭く「僕」の耳に届いた様子を示していると考えられる。
「煮える」から、湿度が高く、ぐつぐつと煮えるような暑さであることが推測される。「dry flower」の季節や何月かについての具体的な情報はない。歌詞に登場する「刹那」や「残暑」、1番の歌詞だけで「バター」のような黄色の光が赤色に変化している様子は、夏と比べて日没が早まっていることを表していると考えられる。このように、あっという間に日が落ちる中で「僕」が束の間に見た夕焼けの色が「世界の終わりみたいな赤」だったのだろう。世界の終わりを感じさせるほどなのだから、燃えるように鮮烈で、毒々しい赤色だったのではないか。ライブで、暗めの赤に照明が切り替わる演出も歌詞と相まって、思わず息を止めてしまうような静かな美しさがある。
 「戦争映画」や「世界の終わりみたいな赤」と、平和とは言えない歌詞が詰まっているこの箇所は「dry flower」の持つ「死」の魅力を強烈に浴びることができる箇所である。そもそも曲名のドライフラワーも花を乾燥させたものであり、言い方を変えれば、瑞々しい「生」より乾いた「死」に近いものだ。それでも、「死」に対する直接的な言葉は、この箇所では登場していない。前の箇所までは薄かった不穏な雰囲気が日暮れと共に濃くなる様子や「僕」の気持ちがとても晴れやかではないことを感じさせる歌詞には舌を巻くものがある。「僕」にとっての「死」や「夏」に該当するのは「あなた(君)」の存在だろう。「あなた(君)」に対する「僕」の心情だと考えられる歌詞は次の箇所であるサビで読み取ることができる。

    寂しくなったら
    きっとそれすらはしたない

 曲のサビで最もインパクトがある歌詞は「寂しくなったら きっとそれすらはしたない」ではないだろうか。はしたないには、慎みがなく品格に欠けていて見苦しいことや、中途半端なこと、ばつが悪いこと、恥ずかしいこと、人に対する配慮が欠けるさま、自分に向けられる他人の言動を不快に感じるさま、程度が酷いことなどの意味がある。それぞれ含む意味は違うが、どれも負の意味合いで使われることが一般的だ。したがって、「僕」は、寂しくなることは良くないことだと感じていると捉えることができる。「僕」は何に対して寂しいと思い、なぜそれを「はしたない」と考えたのだろうか。私は、「水葬」で「あなた(君)」を亡くした「僕」が、「あなた(君)」にもう会えないことに対して寂しいと感じ、寂しいと感じた自分を「はしたない」と感じたと考えた。前節の「水葬」では、「あなた(君)」が入水自殺をしたと考察した。「僕」は「あなた(君)」が「壊れ始めるまでの日々」を知ったうえで入水自殺に協力していたと読み取れる。「水葬」に登場していた「魔法」や「生まれ変われるなら」は、死は「君」にとっては苦しく悲しいだけのものではなく、ある種、救いであったことを示していると考えることができる。「僕」が「はしたない」と感じたのは、「君」が望み選んだ死を、時間が経った今も受け入れることができずに寂しいと思ってしまうことに対してだったのではないだろうか。「はしたない」の複数の意味の中でも、恥ずかしいことや、ばつが悪いこと、中途半端なことの意味に近いと考えられる。
また、「すら」は、「さえ」と言い換えることができる。ある事物や状態を、程度の軽いものまたは極端なものとして例示し、程度の重いものや一般的なものであることを類推させ、強調する意を表す。この箇所では、おそらく「寂しい」と感じることは一般的で何もおかしいことではないことを強調する意味合いとして使われていると推測できる。「水葬」に付き合うほどの仲の者が死亡したのだから、寂しさ以外にも悲しみなどの感情を抱くのは何らおかしくない。それを自分でも理解したうえで「僕」は、寂しいと感じることさえも、きっと「はしたない」ことなのだと考えているのだ。それは、「水葬」を選んだ「あなた(君)」の思いを知っている「僕」だからこそ、「あなた(君)」の死を寂しいと思ってはいけないと自分自身に言い聞かせているように感じ取ることができる。ただ、その感情がはしたないのかについて明確な答えを出せる「あなた(君)」はもういないために「きっと」がつくのではないだろうか。「僕」はこのように言い聞かせているものの、おそらく「あなた(君)」に会えないことを寂しいと何度も思っているのだろう。  

    あなたを待っても
    ずっと遠い日の花火なのでしょう

 今節の冒頭で述べたように「dry flower」の「あなた(君)」と、「水葬」の「君」は同一人物と考える。「君」も「あなた」もどちらも二人称であるものの、それぞれの言葉から受ける雰囲気は変わる。「君」は、同等または目下の人に対して使うことが多く「あなた」よりも親しみのある言い方だ。一方、「あなた」は目上の人に対しても使える丁寧な形であり「君」よりも少々余所余所しい言い方だ。「dry flower」で「君」のことを「あなた」と呼んでいるのは、「僕」と「君」の間の心理的な距離が広がったことを示しているのではないだろうか。余所余所しくなった理由と考えられる歌詞が「遠い日の花火」だ。「遠い日」は、過去や昔と言い換えることが可能である。「花火」と組み合わせると、「遠い日の花火」は過去の「花火」となる。この「花火」は、おそらく「僕」にとっての「あなた(君)」がどのような人物なのかを表しているのだろう。夜空を彩る華やかな打ち上げ花火も、静かながらも表情豊かな香花火も、どんなに輝いていても美しく咲いては一瞬で散ってしまう。その様子からは、大木のような力強さよりも、繊細さや儚さを感じ取ることができる。また、儚いものの例としては「花火」以外にも、シャボン玉や露、蝋燭の火などが挙げられる。その中でも夏の季語の「花火」で表されているのは、「僕」にとって「あなた(君)」と夏が切り離せないことを意味していると考えることができる。「僕」と「あなた(君)」を繋げる夏の出来事と言えば、やはり「水葬」だろう。更に、線香花火の燃え方は人の一生に例えられることがある。「花火」は、まだ学生である内に死亡した「あなた(君)」の生き様をも意味している可能性が考えられる。「ずっと遠い日の花火なのでしょう」と叶わないことだと分かっていても、「僕」は「水葬」で死亡した「あなた(君)」を「待って」いるのではないだろうか。そのように考えられる箇所が「ずっと遠い日の花火なのでしょう」の一文だ。この歌詞は次のように区切ることが可能である。

  ①ずっと遠い日の 花火 なのでしょう
  ②ずっと 遠い日の花火 なのでしょう

まず、①の区切り方から読み取れるイメージについて考える。「ずっと遠い日」は、「ずっと昔のこと」と言い換えられる。この区切り方の場合、「長い時間が経過している」ことが強く印象に残る。次に、②の区切り方で考える。「ずっと」と「遠い日」を切り離した場合の「ずっと」は①のイメージに加えて「この先も変わらないと思っている」様子が印象に残る。①も②も意味は近いものだが、②は特に「僕」の心情が表れていると考えられる。「残暑」の考察でも述べたように「dry flower」は「水葬」の後のストーリーだ。「水葬」を思い起こさせるような歌詞が多いことから、月日が経っても「僕」は死亡した「あなた(君)」を忘れることができずにいると推測できる。「あなたを待っても」からは、死亡したと分かっていても、「あなた(君)」との日々を振り返ってしまう「僕」の苦しみが考えられる。決して「僕」に追いつけないはずの「あなた(君)」に対して「待っても」が使われている点からも「僕」が過去から進めない様子を感じ取ることができる。このように、「dry flower」のサビは「僕」にとって「あなた(君)」の存在の大きさ、更に、そんな「あなた(君)」を失ってしまった「僕」の心に残る傷が生々しく表現されている。
 これまでの歌詞に使用されていた言葉から1番に対してどのようなイメージが思い浮かぶかまとめる。曲名の「dry flower」や、1番の歌詞の「戦争映画」、「銃声」、「空っぽ」などからは、鬱々とした暗さを感じることができる。また、色を想像することができる言葉として「溶かしたバター」の黄色と「世界の終わりみたいな赤」の赤色が挙げられる。どちらも暖色系で、一見あたたかみを感じそうな色合いだ。この言葉に「世界の終わり」や「溶かした」と組み合わせていることで、あたたかみの中に不穏さも漂わせている。とりわけ、「戦争映画」や「dry flower」は、死を連想させる。淡々と言葉を並べていくかのような歌い方やメロディーは、「僕」の表に出せない寂しさが込められているかのようだ。

    染まり続ける翠の扇動に
    疲れ果てても
    まだあなたの横顔は美しい

 この箇所から、曲は2番に入る。1番が終わり2番に入るまでの間奏は、イントロと同じメロディーだ。そして、1番Aメロと同じメロディーで2番が始まるかと思いきや入る直前に1番にはなかったギターの音が入り、曲調が変化する。この箇所までの「dry flower」は、ひとつひとつ音を短く区切るような鳴らし方や歌い方がされていた。一方で、この箇所のメロディーは「水葬」の満ちた水を思い起こさせるような、ゆったりとした鳴らし方や歌い方に近い雰囲気である。更に、「乾き」や「死」とは反対のイメージを持つ言葉の「翠」からも、1番と2番の雰囲気の違いが読み取れる。「翠」は、みどりと読み、1番とはうってかわって寒色系の色だ。「みどり」と読む漢字には、緑や碧があり、それぞれの色は異なる。3つのみどりの中で唯一の常用漢字である「緑」は、草木の葉の色を表す語である。特に新緑のころの明るいものを指し、黄と青を混ぜてできる色だ。「碧」は、みどり以外にあおとも読む。読み方の通り、緑に限りなく近い青緑色だ。元々は光沢のある石を指していた。そして、「dry flower」で使用されている「翠」は、「混じりけのない綺麗な羽を持つ鳥」であるカワセミのメスが由来である。混じりけがないことを意味する「卒」に、「羽」を組み合わせ、鳥の名前に当てた。碧と「翠」を比較すると、碧の方が青みが強い。なぜ、緑でも碧でもなく、「翠」を使ったのだろうか。私は、「翠」が他の2色とは違い、女性の艶のある美しい黒髪を表す際に使えることが理由だと推察した。「翠」を使うことで、「あなた(君)」が黒髪であること、つまりは、「あなた(君)」のことを指していると考えられる。また、「僕」の視点で曲が進行することから「扇動」に「疲れ果てて」いるのは「僕」で、「扇動」の原因は「僕」以外の人物である「あなた(君)」だと捉えることができる。
 それでは、「染まり続ける翠の扇動」とは何を指すのだろうか。扇動とは、気持ちをあおり、ある行動を起こすようにしむけることである。政治的な場面で使われることが多いため、本来の言葉の意味をそのまま当てはめると違和感がある。したがって、「僕」と「あなた(君)」の関連性や「翠」を踏まえて、この曲における「扇動」とは「『僕』が持つ『あなた』への気持ちをあおり、『あなた』を思い出すようにしむけること」と置き換えることが可能だと考えた。また、色を表す「翠」が使われていることから、「扇動され続けている」ことを「染まり続ける」と表現しているのだろう。これらをまとめると、「『僕』が持つ『あなた』への気持ちをあおり、『あなた』を思い出すようにしむけ続けていることに『僕』が疲れ果てている」と考えられる。また、先ほど「扇動」の原因だと考えた「あなた(君)」は「dry flower」の前に既に死亡している。よって、「あなた(君)」が「扇動」の原因であったとしても、「あなた(君)」自身が、直接「僕」に「あなた(君)」のことを思い出すように誘導しているのではないと推察できる。おそらく、「僕」に「あなた(君)」を思い出すように仕向けているのは、「あなた(君)」に関する物や場所などの全てなのではないだろうか。例えば、本稿では「僕を溶かしたバター」を夕日の光だと考え、その色を見た「僕」が「水葬」の金色の朝を思い出していると考察した。その他にも「水葬」を感じさせる歌詞は多い。「あなた(君)」のことを思い出す事柄は、日常のいたるところに存在しているのではないだろうか。だからこそ、「あなた(君)」がいない今でさえも、僕の思考は「あなた(君)」との記憶で「染まり続ける」のだろう。加えて、強い意味合いを持つ言葉である「扇動」を使うことで、「僕」が思い出そうと意識しているのではなく、「させられている」状況であることを示唆していると考えられる。「あなた(君)」を亡くした傷が癒えていない「僕」にとって、「あなた(君)」を無意識の内にも思い出してしまう状況は、おそらく精神的に良いものではない。「疲れる」よりも更に上の「疲れ果てて」からは、「僕」が消耗している様子が伝わる。
それでも、「まだあなたの横顔は美しい」のだ。直接的な愛の言葉は含まれていないものの、まるで「僕」から「あなた(君)」への愛の言葉のように感じられる。「横顔」は「水葬」の「いつも窓をみつめる君」と関連性があると考えられる。おそらく、「僕」の記憶に最も強く残っている「あなた(君)」の表情は、「窓をみつめる」その横顔なのではないだろうか。これまで登場していた「はしたない」や「世界の終わりみたいな」、「疲れ果てても」など「僕」の心情であると考えられる言葉は負のイメージが印象的であった。そのために、この箇所の「美しい」が際立つのだと思われる。幾度となく「あなた(君)」のことを思い出しては疲れ果ててしまった今でさえも、まだ、「僕」は「あなた(君)」に囚われているのだろう。「あなた(君)」に対する「僕」の思いがどのようなものなのか知ることができる重要な歌詞が次の箇所にある。

    この想いはまるで
    散らずに枯れた紫陽花のようだ

 まず、「思い」と「想い」の違いについて検討する。思いは、ある物事について考えをもつこと、頭の中で考えているもの、またはその内容を指す。つまり、想いの意味も内包しており、考えたこと全般を示す際に使われる。想いは、意味の上では思いとほぼ同じものであるが、その中でも、心の中で考えることを指す。「思い」は考え全般、「想い」は感情やイメージを表す際に使い分けられる。厳密な使い分けはない。文化庁は使い分けに関して「おもう物の対象が心に浮かんでいる時は想い、それ以外の一般的なものは想いを使う」と見解を述べている。このことから、「僕」は心の中で「あなた(君)」を思い浮かべており、この文は「あなた(君)」に対する心情が示されていると分かる。「僕」はその想いを「散らずに枯れた紫陽花のようだ」と例えている。
次に、「散らずに枯れた紫陽花」とは何か考察する。曲名の「dry flower」は、「僕」の想いとして例えられた「散らずに枯れた」紫陽花のことだと考えられる。花や葉などを乾燥させて作るドライフラワーは、生花と同じように花言葉がある。例えば、イギリスでは永遠や永久、フランスでは、それらに加えて終わりのない友情や終わりのない愛情、真実、感謝、栄誉など複数の意味を持つ。これらの国では、ドライフラワーとは、乾燥させて花が生まれ変わり、永遠の命を授かったものだと考えられている。そのため、各国で少しずつ違う花言葉がありつつも「永遠」の意味合いを持つ点が共通している。一方、日本ではドライフラワーには花言葉はないとされている。加えて、風水では「死んだ花」と言われ、「陰の気」を持つと考えられることもある。また、加工する花によってドライフラワーにした際の意味も変化する。紫陽花の花言葉は複数あり、その違いには色が関わっている。この曲のジャケ写で描かれている紫陽花が青色に見える点から、青や紫など青系統の「紫陽花」ではないかと考えた。水色や青、紫の紫陽花の花言葉には、無情、冷淡、高慢、辛抱強い愛情などがある。別のミニアルバム「thirsty」に収録されている曲「紫陽花」と「dry flower」の共通点から、「僕」の想いに最も近いと考えられる花言葉は「辛抱強い愛情」ではないだろうか。その理由に「辛抱強い愛情」の花言葉の由来であるシーボルト事件がある。江戸時代、長崎県にドイツ人の医師シーボルトが滞在していた。当時、シーボルトには恋人の「お滝さん」がいたものの、スパイ容疑をかけられたことで国外追放となり2人は離れ離れになった。そして、シーボルトは祖国に持ち帰った紫陽花に「おたくさ」と名付けた。このように離れていても強く思いを寄せていた姿から、「辛抱強い愛情」の言葉が誕生したと言われている。私は、この花言葉の由来と「僕」と「あなた(君)」の状況には重なる点があると考えた。シーボルトとお滝さんは国と国の間の距離によって離れ離れとなった。「僕」と「あなた(君)」も、死によって生まれた隔たりにより、離れ離れになったと言えるのではないだろうか。加えて、死亡した「あなた(君)」へ向ける想いの深さ、そして「疲れ果てても」、「あなた(君)」に思いを馳せる姿から、「辛抱強い」が当てはまると考えることができる。この箇所では、「僕」が「あなた(君)」へ向けている感情の片鱗が垣間見える。
 「辛抱強い愛情」が、「散らずに枯れた」姿のような想いとは何なのか。この箇所を考察するにあたり、前述した「dry flower」と重なる歌詞が多くある曲「紫陽花」との繋がりを検討する。歌詞と曲名を区別するために、以降、曲である「紫陽花」は「紫陽花(曲)」と称する。以下に最も関連性があると考えられる歌詞を示す。
       
・枯れて爛れて茹だる前に全て忘れてしまいたい (「紫陽花」)
・枯れて爛れてしまうのでしょう せめて綺麗に散らしてよ (「紫陽花」)
・この想いはまるで散らずに枯れた紫陽花のようだ (「dry flower」)  

・暮れて忘れ去った あなたの横顔に呪われて(「紫陽花」)
・疲れ果てても まだあなたの横顔は美しい(「dry flower」)  

「紫陽花(曲)」と「dry flower」は収録されているアルバムが異なるため、登場する「僕」と「あなた(君)」が同一人物なのかは定かでない。私は、この2曲に重なる歌詞が多くあることから、おそらく同人物であり、ストーリーも繋がっているのではないかと考えた。歌詞から、「紫陽花(曲)」は「水葬」と「dry flower」の更に後のことであり、「僕」が「あなた(君)」に何かしらの思いを伝えることができずに心の中にわだかまりを残し続けているストーリーではないだろうか。その理由として、「紫陽花(曲)」の「暮れて忘れ去った あなたの横顔に呪われて」が挙げられる。「dry flower」では「あなた(君)」のことを思い出しては心を擦り減らして疲れ果ててしまった「僕」が、それでも「あなたの横顔は美しい」と感じていた。「紫陽花(紫陽花)」にも、「あなたの横顔」と、「dry flower」と全く同じ言葉が登場している。「紫陽花(曲)」を「dry flower」よりも更に後の出来事だと考えた際、「紫陽花(曲)」の「暮れて忘れ去った」は、「僕」が時間をかけて「あなた(君)」のことを忘れ去ることができた様子を表していると考えられる。更に、この直後に続く「あなたの横顔に呪われて」は、「あなた(君)」のことを忘れたと思っていた「僕」がそれでも「あなた(君)」の横顔を思い出してしまうことを「呪い」のようだと示しているのではないだろうか。「dry flower」で「美しい」と思っていた「あなた(君)」の横顔に自分が「呪われて」いると感じる様子からは、「あなた(君)」への想いが煮詰まってねじれてしまったように読み取ることができる。これらのことから、「紫陽花」が「dry flower」の後の話であると考えた。それでは、「dry flower」と「紫陽花(曲)」の共通点から、「散らずに枯れた」に含まれた意味を考察する。前述したように、各国におけるドライフラワーの花言葉には「永遠」や「友情」など明るいものが多い。このことから、「僕」の「あなた(君)」への「散らずに枯れた紫陽花」のような想いは、“永遠の辛抱強い愛情”であると解釈することができる。実際、「あなた(君)」への想いが二度と本人には届かないと分かっていながら考え続けてしまう「僕」の様子からは、「あなた(君)」への並々ならぬ想いを感じ取れる。
 一方で、「紫陽花(曲)」の歌詞も踏まえて考えてみると、また少し違った捉え方をすることができる。「紫陽花(曲)」の2番「枯れて爛れてしまうのでしょう せめて綺麗に散らしてよ」では、「dry flower」で「僕」が「あなた(君)」への想いだと例えた紫陽花が「枯れる」ことよりも「散る」ことを望んでいる。ドライフラワーの花言葉で考えた場合、その想いが「永遠」になることは、散って跡形もなくなってしまうよりも良いのではないだろうか。それでも「せめて綺麗に散らしてよ」と思うのは、「僕」の想いが「あなた(君)」に伝えることもできず永遠になるよりも、いっそのこと終わらせてほしいと願っていることを表しているのではないだろうか。「紫陽花(曲)」の「散る」は、失恋を示していると考えられる。つまり、「紫陽花(曲)」から考える「dry flower」の「僕」の「散らずに枯れた紫陽花」のような想いは、“「あなた(君)」に伝えることができなかった辛抱強い愛情”と捉えることもできる。「あなた(君)」は亡くなっているため「僕」の想いが「散る」ことはない。「紫陽花(曲)」の考察も挟んだ場合、「僕」の後悔や無念を感じ取れる。
 このように、「僕」が「散らずに枯れた紫陽花のようだ」と例えた想いを、ドライフラワーとして保存され永遠の姿になったと考えるのか、もう今では散ることすらできないものだと考えるのか、もしくはそれ以外の何かだと捉えるのかは、聴き手の解釈に委ねられている。この余白部分も曲を聴く楽しみのひとつだろう。

    死期を待つ約束だけが僕を歩かせる
    次の季節へ

 この曲では「死期」を「おわり」と読む。歩みを進める様子から前向きな言葉のようにも、「死期」から後ろ向きな言葉にも見受けられる。「死期を待つ約束」とは何か。約束やその内容に関しての詳細はない。視点や登場人物から、おそらく「僕」と「あなた(君)」の間で交わされたものだと考えられる。「水葬」と「dry flower」の2曲から、「死期を待つ」に近い歌詞として、「水葬」の「生まれ変われるなら鯨がいいな」が思い起こされる。「水葬」でこの言葉を残した「あなた(君)」は自分自身の「おわり」、つまりは「死期」を望んでいたと考えられる。「あなた(君)」は「水葬」のプールでは鯨になれずに死亡した。ただ、死亡することで「生まれ変わる」ためのスタートラインに立つことができた状態とも言い変えることができる。このことから、「僕」が死亡した「あなた(君)」が本当に鯨となって生まれ変わるのを待っている可能性が考えられる。それを踏まえると「あなた(君)の『生まれ変われるなら鯨がいいな』だけが僕を歩かせる」と解釈することができる。「生まれ変われるなら鯨がいいな」は「君の言葉」と書かれており、約束とは書かれていない。ただ、約束ではないとも書かれていないことから「僕」が「あなた(君)」となにかしら約束をした可能性や、「僕」がその言葉を約束だと感じた可能性が考えられる。鯨に生まれ変わった「あなた(君)」に会う。その約束だけが「僕」を次の季節へ歩かせるのだろう。
 一方で、「死期を待つ」のを「あなた(君)」ではなく「僕」だと仮定すると、「あなた(君)」は「僕」が自分の後を追わないか心配していた可能性が考えられる。「死期を待つ約束」は「僕」に自殺するのではなく寿命を全うしてほしいと約束したことを示しているのではないだろうか。「あなた(君)」との約束だけが「僕」が次の季節に向けて歩く理由だった場合、「君」が鯨に生まれ変わることを待つよりも更に後ろ向きな動機であるように感じる。生きている今よりもいずれ来る死に意識が向いている様子は、「あなた(君)」の「生まれ変われるなら鯨がいいな」と似ている。
 本稿では、想像を多分に含めて「死期を待つ約束」を解釈したものの、どのような約束であれ、「約束だけが」や「歩かせる」からは、「僕」が自主的に歩いているのではないと思っているように考えることができる。「次の季節へ歩く」とは、時間の巡り、すなわち「生きる」ことを意味していると推測される。つまり、「約束だけが」の歌詞からも、約束がなければ「僕」は生きることをやめていたのではないだろうか。望んでも望まなくても季節は必ず巡る。そのため、「次の季節へ歩かない」ことは自殺を意味していると考えられる。更に、「だけが」からは「僕」の精神状態が不安定であることが想定される。前向きな理由だけが生きる原動力になるとも、それにふさわしいとも限らない。ただ、死期を待つ約束以外に「僕」の生きる理由がない状態では、生きていることを「僕」が楽しんでいるようには考えにくい。本稿の考察から、「僕」が自主的に生きることを望めない理由に「あなた(君)」が死亡した事実は深く関係していると見られる。「あなた(君)」が居ないこの世界に「僕」の生きる意味はないに等しいのだろう。それでも「あなた(君)」と交わした約束だけが僕をこの世界に留めているのだから、「僕」にとって「あなた(君)」の存在は大きいのだと思わされる。

   戦争映画は鳴き止んでいた
   塩素の匂いは
   空白を塗りつぶしてくれた
   秒針の怒鳴り声もさ
   いつからか愛おしく思えていた

 この箇所に入る前の間奏の途中からこの箇所にかけては、先ほどまでの静かな曲調とは打って変わり激しい曲調に変化する。「世界の終わりみたいな赤」を更に煮詰めたかのような色味の照明や、歌詞にもある「怒鳴り声」のような凶暴なメロディーは「僕」の心情が表現されているように感じ取れる。隣に住んでいる「僕」の耳にも届くほどの音量で再生されていた「戦争映画」を、隣人はもうとっくの前に見終えたのだろう。この歌詞から、冒頭よりも時間が経過していることが推察できる。加えて、音が止んだ瞬間に「僕」が気付いていなかったため、鳴き止んで「いた」と表現されていると考えられる。
 「塩素の匂い」や「空白」はおそらく「水葬」の出来事を示唆しているのだろう。「塩素の匂い」は「僕」が「水葬」のCメロで述べていた「カルキの匂い」と考えられる。「空白」は、「水葬」の「空っぽの水槽」を示していると推測できる。よって、「塩素の匂いは 空白を塗りつぶしてくれた」は、水を抜いて空になったプールに塩素の匂いが満ちている様子を思い浮かべることができる。また、「空白」は「僕」の喪失感や、「水葬」の歌詞の最後にある「『    』」と関連しているのではないだろうか。「僕」にとって「塩素の匂い」は「水葬」や「あなた(君)」を思い出すと同時に、「あなた(君)」の存在を強く感じさせる匂いなのだろう。その匂いで「あなた(君)」を思い出したとしても「僕」の心の穴が完全に塞がらないことが、上から色を重ねるだけの「塗りつぶして」に表されている可能性がある。また、空白の歌詞「『    』」から「空白を塗りつぶしてくれた」を考察する。「水葬」は、「『生まれ変われるなら鯨がいいな』」から始まり、「『    』」で終わっていた。最初と最後の歌詞には鉤括弧がある点が共通している。「『    』」は、最初「『生まれ変われるなら鯨がいいな』」と話していた「君」が言葉を発せる状態ではなくなった、つまりは、死亡したことを意味しているとも考えられる。これらから「塩素の匂いは 空白を塗りつぶしてくれた」は、最初は「君」の言葉が埋めていた鉤括弧の中身が、最後には言葉がなくなり「塩素の匂い」が埋めていると捉えることができる。「水葬」の「『    』」は、ナカシマが息を吸う音で表現されているため、「僕」が吸い込んだ「塩素の匂い」が、塗りつぶしたとも考えられるだろう。「塗りつぶしてくれた」の「くれた」からは、「僕」が「塩素の匂い」を好意的に思っている様子が伝わる。満たされないと分かっていても塩素の匂いは「僕」の虚しさを慰めてくれるように感じたのではないだろうか。
そして、「秒針」の音を「怒鳴り声」と表すことで「僕」が時間に急き立てられているように思っていると推測することができる。「秒針の怒鳴り声もさ」は、この箇所の中でも特に圧が強く感じる歌い方であり、何かに追いかけられているような緊迫感を漂わせている。一見恐ろしく感じる「秒針の怒鳴り声」を「僕」は「いつからか愛おしく思えていた」のだ。私は、「僕」が時間をかけて「あなた(君)」の傷を乗り越えていこうとしている様子なのではないかと考えた。おそらく「僕」は、「あなた(君)」を置いて「僕」が先に進んでいることを否応なく認めさせる秒針の音を、最初は「怒鳴り声」と疎ましいとすら思っていたのではないだろうか。それでも、「いつからか」と表現されるほどの短くない時間が「僕」の傷を癒し、「僕」に「あなた(君)」がいない世界での時間の経過を「愛おしい」と感じさせたのだろう。「思えていた」からは、「僕」が以前はそう思えなかったけれど思えるようになった様子が読み取れる。
 「死期を待つ約束だけが 僕を歩かせる 次の季節へ」と考えていることも、「秒針の怒鳴り声もさ いつからか愛おしく思えていた」と感じたことも、どちらも「僕」の本心なのだろう。それでは、「僕」は完全に「水葬」を過去の出来事とし、立ち直ることができたのだろうか。私は、これまでの考察から「僕」が今も「水葬」の出来事を思い出にできないでいるのではないかと考えた。この箇所では過去の「水葬」の記憶が浸食し、現在の「dry flower」がまじりあっているように読み取れる。「僕」が安定したかのように見せかけ、実際は今も不安定な様子を表現しているのではないだろうか。以下にそのように考えられる歌詞を示す。

  戦争映画は鳴き止んでいた →現在
    
  塩素の匂いは
  空白を塗りつぶしてくれた →過去(水葬)

  秒針の怒鳴り声もさ
  いつからか愛おしく思えていた →現在

上記のように、過去と現在を表すような歌詞が交互にあることで、密度が濃く重苦しいメロディーと相まって「僕」の思考が非常に不安定であり揺らいでいるように見える。過去を振り払えない「僕」が背負う苦しみや、心の内に秘めている激情が特に凝縮されているように感じることができる。

   戦争映画は鳴き止んでいた    
   静寂の中
   浮かぶ船の帆は靡かない
   思い出にすらなれない夏は
   永遠になった

 再び繰り返される「戦争映画は鳴き止んでいた」は、先ほどと違い静かなメロディーと共にあることで、全く同じ歌詞でも圧がやや弱まって聴こえる。加えて、「戦争映画は鳴き止んでいた」の後からも、先ほどまでの激しい勢いが徐々に失われていき、穏やかな曲調となる。この曲調の変化から「僕」の激情が落ち着いたかのように感じ取ることができる。特に、「浮かぶ船の帆は靡かない」からは、先ほどまでとは比にならないほどスピードが遅くなり、音数が減る。そして、最後の「永遠になった」ではナカシマの歌声のみとなる。まさしく「静寂」のような曲調は、先ほどまでとの対比を強く感じさせる。このような曲調の変化や、「船の帆」「夏」と水と関係する「水葬」を連想させる歌詞は、この箇所が「水葬」に深く関係していることを示しているのではないだろうか。この箇所も先ほどのように現在と過去でそれぞれ歌詞を分けると、過去である「水葬」の占める割合が多いのではないかと考えられる。以下にその考えを示す。

  戦争映画は鳴き止んでいた→現在  

  静寂の中 →現在とも過去(水葬)とも取れる        
    
  浮かぶ船の帆は靡かない →過去(水葬)

  思い出にすらなれない夏は →過去(水葬)
  永遠になった

 「戦争映画」に関する歌詞は先ほどの考察と同じように、現在の状態の表現だろう。それでは、「静寂の中」から以降の歌詞にかけて、「水葬」との関連性を考察する。
 まず、静寂はこの曲では「しじま」と読まれている。この漢字自体は「しじま」とも「せいじゃく」とも読むことができる。「せいじゃく」は、物音ひとつしないで静かでひっそりとしていることや、静まり返っていることを表す。一般的に「静寂」は「せいじゃく」と読むことが多い。そして、「しじま」も「せいじゃく」同様、静まり返って物音ひとつしないことを意味する。「せいじゃく」との違いとしては「しじま」には、口を閉じて黙りこくっていることや無言の様子を表すことができる点である。したがって、静まり返ったことを表現する際でも「せいじゃく」は、物音がしない静けさ、「しじま」は人が言葉を発しない沈黙による静けさと表現によって使い分けることができる。これにより「dry flower」の「静寂の中」は、物音がしない静けさと沈黙の両方の意味で考えることができる。「静寂の中」からは「水葬」の中でも「沈黙する大気の底」や「『    』」を連想することができる。その理由に、「静寂の中」の後に続く「浮かぶ船の帆は靡かない」が挙げられる。「水葬」で「僕」は、死体の「あなた(君)」に対して「飛沫をあげてみせて」と願っていた。「靡かない」も「飛沫をあげてみせて」も、どちらも「動かない」状態が共通しているのではないだろうか。船の帆は風がないと靡かない。「浮かぶ船の帆は靡かない」は、実際の船の話をしているのではなく「水葬」で「あなた(君)」が息をしていない様子の表現と考えることができる。加えて、先ほどの考察では「水葬」の最後の歌詞「『    』」は「あなた(君)」の死による沈黙のように解釈できると述べた。これらから、「静寂の中 浮かぶ船の帆は靡かない」の「静寂」は、物音ひとつしない空間の静けさと「あなた(君)」の沈黙による静けさのどちらとも取れる。そして、「あなた(君)」の沈黙は「浮かぶ船の帆は靡かない」、つまりは、「君」が死亡したためであるのだろう。このタイミングで「僕」は「水葬」の出来事と過去の「君」のことを思い浮かべていたと読み取れる。
 次に、「思い出にすらなれない夏は 永遠になった」について考察する。この箇所から連想される「水葬」の歌詞として「終わらない夏に ただ渦を巻いた」を挙げる。「水葬」で解釈した内容と重複するため、この箇所では簡潔に示す。「思い出にすらなれない」は「僕」の中で「あなた(君)」との「水葬」は過去の思い出として終わらせることができる出来事ではないことの表現だと考えられる。「永遠になった」は、「思い出にすらなれない」ため「僕」の中で生々しく残り続けているさまを思い浮かべることができる。この箇所で音数が減っていく様子も、「僕」が過去である「水葬」の記憶に意識が引き寄せられているように感じ取れる。このように、同じ「戦争映画は鳴き止んでいた」で始まっていても前半と後半では全く異なる雰囲気を味わうことができる。

    誄歌のようなヒグラシの声に眠る

 「永遠になった」の後、ギターが短い音を挟み、10秒ほどの短い間奏に入る。先ほどの静けさから一転、ナカシマが空気を吸う音からまた音数が増え、サビの際と似たメロディーへと変化する。私は、この間奏でナカシマが歌う「ああ ああ」の歌い方をまるで「僕」の慟哭のように感じた。特に2度目の「ああ」で高音になる箇所は、「僕」が言葉にならない苦しさや切なさを絞りだしているように聴こえる。この間奏と先ほどの「思い出にすらなれない夏は永遠になった」を比較すると、全体を通しても「思い出にすらなれない夏」の静けさが際立つ。私は、「dry flower」で静けさや水を感じさせるような箇所は「dry flower」の中でも「水葬」に最も近い箇所であるのではないかと考えた。よって、音数が増える「誄歌のようなヒグラシの声」は、おそらく現実の「dry flower」の状況の表現であると予測される。
 誄歌とは、死者の生前の徳をたたえ、その死を悼む歌である。「僕」が感じた「誄歌」は、「あなた(君)」の死を悼むものだろう。「僕」が耳にしたヒグラシは、俳句において秋の季語とされている。鳴く時間帯は基本的に朝方と夕方が一般的である。和名である「ヒグラシ」は、日暮れ時に鳴くことから、「日を暮れさせるもの」とつけられたことから由来する。1日の終わりや夏から秋にかけての季節の移ろいを感じさせるような「ヒグラシの声」は「僕」にとって「終わり」を感じさせるような鳴き声だったのではないかと考えられる。そのため、「あなた(君)」の死をもたらし「永遠になった」季節である「夏」がじきに終わってしまうことを悲しく思ったのではないだろうか。
 冒頭に「充分寝た」と述べている「僕」はこのタイミングでまた「眠る」と睡眠をとろうとしている。時間が何時ごろなのかを知るための歌詞はないため、ヒグラシの鳴く時間帯に合わせて、朝方か夕方の2パターンで考えることができる。まず夕方だった場合、「充分寝た」から空の色の変化と共に多少の時間は経過しているものの、夜が来る前にまた眠ることから起きている時間が非常に短いと考えられる。「充分寝た」はずの「僕」を眠気が襲ったとは考え難い。それでも、また目を閉じている様子からは「僕」の憂鬱な心情や体の重さを想像することができる。次に朝方だった場合、「僕」が「水葬」や「あなた(君)」のことを考えている内に朝になってしまった状態が考えられる。この場合、「戦争映画は鳴き止んでいた」を2回繰り返したことも、それだけの時間が経っていることを示唆しているように解釈することができる。夕方に起床し朝方に眠りにつく生活は、昼夜逆転しており健康的とは言い難い。生活リズムからも「僕」の不安定な様子を感じ取ることができる。
本稿では「眠る」のを「僕」のことだと考えて考察を進めた。他にも「あなた(君)」が「眠る」と考えて解釈をすることもまた違った意味に考えられる。「誄歌のようなヒグラシの声に ”あなた(君)が” 眠る」とした場合、「僕」の中で夏を象徴する「あなた(君)」が、秋に季節が変わることを「眠りにつく」と感じたようにも捉えることができる。視点を「僕」にするか「あなた(君)」にするかで、また印象が変わるこの箇所は、改めて「僕」が「あなた(君)」の死を悼んでいるように感じ取ることができる。

    寂しくなったら
    きっとそれすらはしたない
    あなたを待っても         
    ずっと遠い日の花火なのでしょう

 「dry flower」の最後の箇所である。サビと全く同じ歌詞であるため、考察としてはサビで述べた内容と同じものとなる。ただ、メロディーや歌い方はサビとは異なる箇所が多い。その中でも、「あなたを待ってもずっと」でのドラムは印象に深く残る。この箇所はぜひ、聴き比べてみてほしい。また、「遠い日の花火」から数拍置いて「なのでしょう」と歌う箇所も、ラスサビでしか見られない特徴である。1番サビでは「遠い日の花火」と「なのでしょう」の間に挟まれるのは1拍のみであった。一方、2番の「遠い日の花火」と「なのでしょう」の間は、1番サビと違い長めの拍がとられている。また、「花火」の語尾が少し伸びるにつれ楽器の音も止まり、「なのでしょう」ではナカシマの歌声のみになる。そっと囁くような歌い方は「僕」の寂しそうな様子を思い浮かべさせる。曲の全体を通して、進むことに対してネガティブなのは、「あなた(君)」との日々が色褪せていくように感じている可能性が考えられる。

 以上が「dry flower」の考察である。「水葬」の後日談と思いながら聴くと、「僕」が本当は「あなた(君)」のことをこのように感じていたのではないかとさまざまな方向に解釈をすることができる。「水葬」と同じように、この曲をどのように解釈するのかは人それぞれだろう。私は、「僕」の「あなた(君)」への想いは、愛情も執着も含んで非常に重いものへと膨らんでいるように見えた。大切な者の「死」を目の当たりにしたのだから、「僕」の傷はそう簡単に癒えるとは言い難いだろう。「僕」はこの後「あなた(君)」の死を乗り越えて、思い出にすることが出来るのだろうか。気になる方はぜひ「命日」、そして「hameln」を聴いてみてほしい。


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