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どうしてわざわざ切り通したのか? 鎌倉に残る切通しの道を歩く

大きな観音様を仰ぎながら

先日、「歴史を楽しむ会」のイベントで、大船から北鎌倉を経由して、稲村ヶ崎へと至る、鎌倉切通しの散策の会に参加しました。

集合は大船駅。

横浜線・根岸線を使うことが多いので、「大船駅」という名称には馴染みがありつつ、ほとんど来たことがありません。

唯一、昨年「歴史を楽しむ会」のイベントで鎌倉芸術館に行ったことくらい。

まず、西口から駅の外に出ていくと、白い大きな像の上部が見えました。

これは大船観音。
昭和初期から計画があったものの、世界恐慌の影響で頓挫。
戦後、紆余曲折ありつつ、ようやく昭和32年(1957)に完成したのだとか。

今までここに、こんなに大きな像があるとは全く知りませんでした。
ちなみに、胸像、すなわち胸までしかないとのこと。
これも事情あってのことのようですが、今回は行けなかったので、いずれ改めて、お参りしたいです。

地域に根付く信仰心

最初の立ち寄りスポットは、「玉縄たまなわ首塚」。

大永6年(1526)、千葉の里見義弘が鎌倉に攻め込んできた際に、小田原北条氏方としてこの地で防衛に当たった、甘糟氏側の死者を弔うために、玉縄城主・北条氏時が立てたものだそうです。

この甘糟氏というのは、長くこの辺りを領地としており、支配層が変わるたびにそちらに付くことで安堵されてきたとのこと。

現在では首塚の周りに六地蔵なども祀られ、地元の人が今もしっかりと守っていることがよくわかります。

背後には山がありますが、突然盛り上がっている体で、天然の城壁のようです。

このあと歩くことになる切通しのあたりも含めて、この地形が鎌倉とその周囲の特徴ですね。

首塚を後にし、柏尾川を渡ったところに塩釜神社があります。

塩釜神社といえば陸奥国一宮である宮城の「鹽竈神社」が有名ですが、関連があります。

この地の女性が、江戸時代末期に伊達氏に仕え、その際に崇敬していた鹽竈神社の分霊を、帰郷した際に祀ったことに始まるとか。

この謂れだけではなかなかピンとこないものがありますが、その女性はもしかしたらこの地の有力者の娘だったのかもしれません。

海に関連する神社があるのは、川沿いなので水に関わる神様と言うことで辻褄は合う、とは今回の案内を務めてくださった方のお話。

自分の地元にも「住吉神社」がありますが、海の神でありながら海からは離れた地にあります。

ですが、境川という、しばしば氾濫した川の側にあり、共通点を感じました。


そこからしばらく南東に向かい、東海道線の踏切を渡ったところで駅方面に少し戻る道を辿ると、狭い歩道に面して祀られているのが「一福弁財天尊」。

大船駅東側が開発されるに伴って交通量が増え、結果として多発した交通事故に心を痛めた近隣の人々が、交通安全祈願のために安置したとか。

先ほど通った柏尾川沿いにあった芸者街の美人をモデルとして、山ノ内の彫刻家に弁財天像を板石に彫り描いてもらった、という由緒が地元の町内会で伝わっているそうです。

駅の東側は平らでまっすぐ

横須賀線の高架を潜り、大船駅の方に戻ります。

そのあたりからは、大船観音のお顔をはっきりと望むことができました。

頭上にはモノレールの軌道が架かっています。
大船にモノレールが通っているとは、知りませんでした。

案内の方によると、吊り下げ式のこのモノレール、結構激しい上下動があるそうです。

それはつまりこの土地が、起伏がある証拠だ、と。

現代でさえそうなので、かつてはもっと際立っていたのではないか、というお話でした。

東側の繁華街に入り、芸術館通りを歩きます。

先ほどの西側の道とは異なり、先まで見通せるほど真っ直ぐに伸びているのが印象的です。

鎌倉芸術館に向かっている芸術館通りには、夜になったら灯りが灯るのであろうクリスマスシーズンのLEDが、いくつもぶら下がっていました。

通りはずっと平らですが、「あの向こうに見える山、あれを越えることになります」と言われて、若干ひるみます。
道のりはずいぶん遠そうです。

隠し通路のようなルート

坂道を登り「大船むくどり公園」というところに至って、それからどうするのかと思っていると、公園の奥の方へ。

フェンスとフェンスの間から山道に入れるようになっていました。まるで隠し通路のようです。

その、隠し通路を入っていくと、清水冠者しみずのかんじゃと呼ばれた、源義高(木曽義高)の墓と伝わる塚と墓碑があります。

義高は木曽義仲の長男。頼朝と対立した義仲は、長男を人質として鎌倉に差し出すことで和睦したものの、のちに義仲が討たれると、義高は鎌倉を脱出したものの、入間で討ち取られたとのこと。

この場所は常楽寺というお寺の裏山にあたる場所。

もともとは、別の場所にあった塚を江戸時代に掘り返したところ、青磁の骨壺が出てきて、木曽義高の骨だということでここに葬られたそうです。

この裏山を少し降ったところには、北条泰時の娘が祀られている「姫宮塚」があるのですが、これは頼朝の娘・大姫の墓だという説もあるそうです。

先ほどの義高は大姫の婿という名目で鎌倉入りしており、義高の逃亡時にはこの大姫が関わったとか。

その義高が殺されてしまったことで大姫は心を病むことに。後々も縁談を断り続け、結局20歳で早世してしまったとのこと。

裏山を降りたところにある、常楽寺じょうらくじの山号は粟船山ぞくせんざん

訓読みすれば「粟船あわふね」となる地名が、のちに「大船おおふな」になったのだろう、とのこと。

この常楽寺は鎌倉幕府3代執権・北条泰時が妻の母のために建立した御堂がはじまりで、奥には泰時の墓もあります。

現代まで残る領主の家

常楽寺を後にしてしばらく進むと、大きな門を構えた邸宅があります。

これが、先ほどの首塚のところで出てきた甘糟氏の、子孫の屋敷なのだそうです。

何百年もこの地の有力者であり続けていることに驚きます。

大邸宅の近くにある熊野神社の階段を登ると、富士山を望むことができました。

ちょうどその前に立つ鉄塔が、富士山の背骨のようにも、ネクタイのようにも見えます。

それから、え、こんな場所を?と思う裏道のようなところを歩いていくと、ついに今回最初の切通し、高野たかのの切通しの中に入りました。

なぜ苦労して切通しにしたのか

ここはちょうど尾根筋にあたるところで、歩くのに不便はないはずなのに、なぜ労力を使って切通しの道になったのか、理由は謎だとのこと。

これを全て人力で掘り進めたのかと思うと、ちょっと気の遠くなるような気がしてきます。

切通しを抜けていくと、大船高校の裏側に出ました。

さらに進んでいると、枝越しにまた大船観音のお顔が見えました。

いったん住宅街に出て、さらにしばらく進みます。

明らかに道が続いている方ではなく、住宅沿いの、一見通っていいの?と思える道を山の中に向かうように入っていくと、次の切通し、長窪の切通しに入りました。こちらは先ほどの高野の切通しよりも両側がさらに高く、ちょっと別世界に入り込んでいくような感覚があります。

切通しを抜けて山を出て、道路に出ました。

振り返ってみると、見えるのはフェンスと木々ばかりで、とてもそこに道があるようには見えません。

ここまでいずれも、ガイドなしではとても歩けないようなルートでした。

北鎌倉方面へ向かう

この辺りは現在「高野台」として、住宅地として造成されています。

高野台を開発したときに見つかった五輪塔を集めて祀ったのが高野台供養塔で、供養等のまわり、さらにはその奥に、多くの五輪塔が祀られていました。

こちらををお参りして、南西に下っていきました。

横須賀線の踏切を渡り少し坂を登ると、時宗のお寺・光照寺がありました。

ここは鎌倉仏教の一つである時宗の開祖・一遍上人が、鎌倉入りしようとしたところ警護に阻まれ、やむなく野宿した場所に建てられたというお寺です。

それから北鎌倉駅前に出たところで、お昼休憩となりました。

先日鎌倉に来る機会があり、その際に北鎌倉近辺はあまり飲食店がない、と聞いていました。

また、時間的にどのお店も混んでいるようだったこともあり、自分はふと目に止まって気になったベーカリーでパンを購入。

駅前のベンチでランチタイムとしました。

その指の先には何があるのか

再度集合して、縁切り寺として知られる東慶寺の前を横切りつつ、次に向かったのは鎌倉五山の第四位・浄智寺。

境内には「やぐら」と呼ばれる横穴が多数あり、多くの仏像が祀られています。
このやぐらは、古くは住まい、後には墓所になり、戦前は倉庫としても使われていたとのこと。

山に穿たれた小さなトンネルを潜ると、奥のやぐらには独特の表情をした布袋尊が祀られていました。

右手の指でどこかを指している姿もユーモラスです。

浄智寺を出ると、葛原岡ハイキングコースを進みます。

それほど険しくはないとはいえ、山道なので、これまでとはまた違う雰囲気です。

葛原岡神社に到着して、参拝。

鎌倉末期に倒幕の目論見が失敗して捕らえられ、処刑された日野俊基が祀られている神社です。

前回鎌倉に来た時もお参りしましたが、その翌日には……というのはまた別のお話でした。

そして、化粧坂けわいざかの上の辺りへ。

海から来たはずの新田義貞が通ったすれば、いま残っている化粧坂は海から離れている。

本来はもっと長く続いていたのでは、ということでした。

そんな話を聞いていて、スマホで検索してみようかな、と思ったところで、スマホがないことに気づきました。

カバンはもちろん、近辺を探してみたのですが見つからず。

しばし皆さんを足止めしてしまい、これ以上は申し訳ないので、ご心配をおかけしつつもここで離脱。

残念ながら散策への参加はここまでとなりました。

この後はスマホの捜索となってしまいましたが、それはまた別のお話。


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