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韓国ドラマグローリーの中のケア

先日、Netflixのグローリーという韓国ドラマを観た。
あまり韓国ドラマを観る方ではない(というかほぼ観ない)けれど、友人に勧められて観たら思いの外面白かったので、お酒を飲みながらグダグダと最新話まで追っている。この「いじめっ子たちに復讐する」という最もケアと関係なさそうなドラマの中で、ケアを感じるモーメントに出会った。

ケアと私がここで呼ぶのは、「ケアの倫理」という学問領域における「ケア」だ。ケアの倫理は発達心理学の分野から元々出てきた学問で、「自律的な個人が一人で生きていく社会」という西洋近代が作ってきた幻想を真っ向から批判する、比較的新しいものである。その代わりに、「人と人が相互に依存し合いながら生きている」という違った社会のあり方を提唱する。そこで人間に必要不可欠なものとして語られるのが、ケアだ。
何も育児や介護だけじゃない、ケアは全ての行為がなりうる可能性を持っている。料理を作ってあげたとか、優しく声をかけたとか、ただそばにいたとか、ちょっとLINEしてみたとか、そんなのもケアだ。
じゃあ全部ケアじゃん、と言いたくなるかもしれないけれど、まさにその通りで、だからケアを基点に社会を考え直そうよ的なことがこの学問分野では語られている。ここ数年は日本でブームになってる感もある。

ケアの倫理の話はこれくらいにして、グローリーの中のケアのはなし。
(あまり本筋に関係ないけど、ここから先は一応ネタバレになる)
主人公が過去を回想するシーン。
いじめられて、親にもひどい虐待を受けていて、絶望した主人公は死ぬために海に入り、ざぶざぶ歩き出す。泣きながら歩いていると、少し前にバイト先でたまたま出会った、息子を亡くしたばかりの女性が同じくざぶざぶと海の中を歩いて死のうとしているのを見つける。

普通に頭で考えたら、自分も死のうとしているんだし、気持ちだって極限状態だし、特にその人に気を向けたりしないだろう。
だけど主人公は咄嗟にその女性の元へと急ぎ、岸へと連れ戻した。
そして助けられた女性は裸足の主人公の足を触り、「裸足で大丈夫?」「セーターは濡れると重い」と心配する。そして、寒いから春に死のう、とお互いに抱き合う。

このシーンは特にハートフルな感じで描かれているわけでもない。お互いに死のうとしていた人たちがなぜか互いを、望んだわけでもないけども心配しあっているという滑稽さがむしろ強調されているようにも思う。

「ケア」は何もハートフルなイメージのものでもなくて、たとえばそこで人が倒れたら咄嗟に手を差し伸べてしまうような、望むと望まざるとに関わらない「応答責任」という側面も強調されている。
この主人公だって、自分が死のうとしているときにいい人ぶりたいとか、最後に善行をしたいとかそんな気持ちは微塵もなかっただろう。だけど咄嗟に助けてしまった。そして助けられた方も、足が冷たそうだとかセーターが重そうだとか死ぬことを考えたらどうでも良さそうなことを心配してしまう。

いい人とかそういう話ではなく、望んでなくても咄嗟に手を差し伸べてしまうこと、なぜだか相手のことを心配してしまうこと、そんな瞬間が確かにこの世界にある。いくら一人で自立してると思っても、人との関わり(=依存)の中に、常に私たちは巻き込まれていく。
だけどそういうものはとてもわかりづらいので、「ケアの倫理」もあんまり一般的には伝わらない。グローリーのこのシーンはそういう機微が描かれていたと思うので、ぜひ観るときは頭の片隅に置いてみてほしい。


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