傲慢の行方

 学生時代の私は、戦争と環境問題について常に考えているような子供だった。それぞれどうして関心をもつようになったのか。戦争については家の本棚にあった、手塚先生の『アドルフに告ぐ』をこっそり読んだからだった。小学4年生にとっては刺激が強すぎて読んだその日から眠れなくなってしまった。当たり前である。大勢の人が同じ思想に流されていくことの危険性、そして教育というものの恐ろしさについて思い巡らせた。環境問題については簡単で、父の仕事の都合で三重県の四日市市に3年ほど住んでいたからである。目と鼻の先にコンビナートがあるという環境で育ったので自然と関心が向くようになった。それでも一番大きかった要因は中学3年生の理科の時間にみた環境問題に関するビデオだったと思われる。

 その理科教師は初回の授業において『風の谷のナウシカ』と「亀の解体」について熱く語りだし、私たち生徒をドン引きさせた。彼は物語の内容についてではなく、あそこのカット割りがどうだとかそういう話を延々と続けていたのである。私は全く興味をもてなかったので、意識を空に飛ばしていた。ききたくない話はきかなくても良いということをその時に学んだ。その話が終わると次は「亀の解体」についてである。「亀の解体ってなんやねん」という感じなのだが、文字通り亀の甲羅を本体からひっぺがすことだそうである。私はまたまた意識を空に飛ばしていた。中学3年の時に父の仕事の都合でその学校に転校してきた私は、ただでさえ不慣れな生活で毎日が苦しかった。その出来事もあってか、私は本格的にその学校を嫌いになっていった。思えばその中学ではよく分からない行事を色々とやらされた。夏の暑い時期に『第九』を歌わされたことは今でも忘れられない。しかも日本語とドイツ語の両方で。ご丁寧にパート分けまでして。猛練習のかいもあって私は今でも『第九』をドイツ語で歌うことができる。しかしそのことを私は余程記憶から消し去りたいようである。その『第九』がどこで披露されていたのか全く思い出せないのだ。どうして夏に中学生に『第九』を歌わせようなどと思いついたのか。先生たちの中に『エヴァンゲリオン』のファンでもいたのだろうか。

 話を環境問題のビデオに戻そう。件の理科教師は教え方は上手く、授業を計画通りに進めることに成功していた。上手く行き過ぎて最後の方では授業時間が大幅に余っていたぐらいである。当然その時間は受験勉強にあてられるだろうと私たちは期待した。しかしその教師は何を思ったのか、環境問題のビデオを強制的にみせる時間にしたのである。全部で5回ぐらいだっただろうか。その時間がおわれば受験勉強の時間を確保すると彼は約束したのだった。果たしてそのビデオは恐ろしい代物だった。このままでは地球が近い将来破滅してしまうのではないか、とみた人を震え上がらせる内容だったのである。それだけそのビデオは地球の危機的状況を活写していた。私たちはお互いに言葉を交わさず、皆一様に暗い面持ちで理科室からぞろぞろとでてくるのがお決まりの風景となっていった。ただでさえ感じやすい私などは人一倍落ち込み、高校に上がっても時折その内容を思い出しては律儀に落ち込んでいたぐらいである。ただそのできごとがダメ押しとなって、その中学のことを最後まで好きにはなれなかった。そしてあの理科教師のことを端的に表現すれば、私の中においては「傲慢」その一言につきる。

 あれから随分と時間がたった今、地球が滅亡していなくて本当に良かったと思う私である。

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