見出し画像

この愚かさに平安あれ

肉体と同一化している「私」

肉体である自分を「私」だと信じている。

人間である自分を「私」だと信じている。

そのように思考しているこの自分を「私」だと信じている。

自分だと思っているこの自分を「私」だと信じている。

その「私」は、非二元(ノンデュアリティ)の教えを学んで「この世界は夢だ、幻想だ」と知的理解としては分かっているつもりでいる。

でも実際のところは、「この世界は幻想であり、実在していない」などとはとうてい思ってはいない。

その「私」は、この世界はリアルだと信じている。

当然のように「私」はこの世界は現実だと信じている。

「私」は存在していると信じている。

「私」は、この世界の中で人生を生きていると信じている。

そして、その人生はできることなら苦痛や苦しみはないほうがいいと思っている。

苦痛や苦しみを最小限に抑えつつ、この世界でなるべく幸せと喜びでいられることが望ましいことだと思っている。

そして、それがこの世界で生きる目的になっている。

その「私」は、この世界の中に居ると信じている。

その「私」は、いつか自分は死ぬと信じている。

その証拠に、この肉体が「私」だから、というわけである。


「私」という主体の真実

一方、赦しの視点、つまり、悟りの視点から見るならば、

本当のところは、苦痛や苦しみを体験するために自ら望んでこの世界の夢を見ているだけである。

この世界の夢の中では、苦痛や苦しみを経験することができるだけなく、死を経験することだってできるのだ。

そもそも、その「私」はこの世界の中にはいないにもかかわらず、夢を見ているだけにもかかわず、夢の主人公(肉体)と同一化することによって、それが経験できるわけである。

でも、そのような真実は「私」の無自覚の中に隠されている。

自ら自分でその真実を忘れているのだ。

すべては、この「私」である個別性/特別性を維持するためである。

それによって、分離の夢を見続けることができるからだ。

むしろ、その真実がバレることをひどく恐れている。

なぜなら、すべての真実がバレたなら、すべての夢が終わるからである。

もしその真実を思い出すものならば、「私」という幻想のストーリーは終わるのはもちろんのこと、この「私」も消滅するわけである。

そうなることを、「私」は何よりも恐れている。

「私」は、贖罪を恐れている。

「私」は、贖われることを恐れている。

「私」は、神の愛を恐れている。

それよりも、罪人のままのほうがマシというわけだ。

ゆえに、真実を思い出さないためにも、その防御策として自分からこの世界をリアルだと思いたいのである。

真実を思い出すくらいなら、死んだほうがマシだとさえ思っている。

そのためには苦痛、苦しみだってかまわないということ。

個の「私」であるためには、個の「私」を存続させるためには、苦痛、苦しみが必要なのだ。

「私」は、この幻想(妄想)のストーリーを信じ続けていたいのだ。

自分でそれを決断している。

「私」はその真実を一番思い出したくないし、「私」はその真実を思い出すことを一番恐れている。

なんという狂気!

まるで狂っているとしか言いようがない。

それが「私」だ。

なんと愚か!

この愚かさに平安あれ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?