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夢から目覚めるのは誰なのか?

自分と思っているこの「自分」が目覚めるのではない

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)はこの世界の夢から目覚めることを最終的な目的としています。

ただし、私たちが勘違いしがちなのが、自分と思っているこの「自分」が目覚めるのだと思っているということです。

そうではありません。

この「自分」が目覚めるのではありません。

この「自分」が完璧になるのではありません。

この「自分(=私)」は実在していません。

この「自分」と思っている自分は、自分で作り出したニセモノの自分です。

それを、「自我」と呼んでいます。

この「自分」こそが幻想なのです。ニセモノなのです。

そう、私たちは非二元の霊性の道を歩んでいくとき、つい、この「自分」が目覚めるのだと大きな勘違いを起してしまうのです。

そういうことに気付けるようになるために、コースはあらゆる言葉で私たちを導いてくれていると言うことができます。

目覚めるのは自分と思っているこの「自分」ではないということ。

この「自分」は自我であるということ。

まずは、そのことを自覚/認識することが私たちに求められています。

コースの学びが深まっていけばいくほど、この「自分」の非実在性を次第に受け入れられるようになっていくといえます。

そうなっていくにしたがって、私たちは「一歩下がって、聖霊に明け渡す」という実践ができるようになるといえましょう。


目覚めるのは誰なのか?

では、

目覚めるのはいったい誰なのか?

というのなら、それは、この今も神のワンネスの一体性の中ですべてとつながっている「神のひとり子」が目覚めるのだということです。

ならば、

自分と思っているこの「自分」とは?

というなら、神のひとり子が夢を見ていて、その夢の中の夢の主人公(登場人物)と同一化しているにしかすぎないということです。

コースの学びが深化していくにつれて、そのことが自覚されるようになります。

つまり、この「自分」は実在しないのだと。

ようするに、このコースの実践は、この「自分」を霊的に高めていくとか、霊的に向上させていくとかというようなものとはまったく違うのだということです。

そうではなく、この「自分」の無意味性、無価値性、非実在性を受け入れていくことがその実践なのだということです。

自分だと信じているこの「自分」は偽のアイデンティティーなのだということを受け入れていくと共に、もう一つ大事なことがあります。

それは、これまですっかり忘れていた「心」の自分を思い出していく必要があるということです。

いわゆる、真のアイデンティティーを思い出していく必要があるのです。

いわゆる、むやみに「個別の自己」を非実在としていくのではなく、「個別の自己」から「心の自己」へシフトしていくことによって、それはなされるのだということです。

そのための訓練が、忘却のベールを超えて「心」に戻っていく訓練であり、さらには、その「心」の視点から自分(自我)を聖霊と共に見ることをしていくというものです。

つまり、「心」の視点から夢の主人公の自分を裁くことなく咎めずに見ることをしていくということです。

そのとき、その観察者は夢を見ている者(心)であり、もはや、夢の主人公ではなくなっています。

そう、その訓練をしていくことによって、私たちはその観察者(夢を見ている者)のほうが真のアイデンティティー(本当の自己)なのだと理解/認識するようになります。

そのようにして「個別の自己」から「心の自己」へ、つまり、「肉体の自分」から「心(決断の主体)の自分」へとアイデンティティーがシフトしていくわけです。

もう一度言いますが、この自分と思っている「自分」が目覚めるのではありません。

自分とは何者か?

このコースは自分の本性を思い出していくための霊性の道なのだということです。

コースの学びが深まっていくことによって、この(個人の)自分を高みへと向上させるために勤しんできたスピリチュアルな探究の旅は、その終わりを告げることになるといえます。

コースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、もう何かになろうとする必要もなければ、どこにも向かわなくてもいい、ということが認識されていくことになるからです。

またそれと同時に、本当の自分(真の自己)はこの世界の夢とはまったく関係なく、今ここにただ在り続けていることが思い出されていくことになります。

私たちはコースの学びと実践を通して、本当の自分(真の自己)は何も必要としない、何をする必要もない、ということを理解するようになり、やがては、今ここの完璧さを知覚するようになります。

この「自分」は何かになろうして時間という幻想の中の旅をしていただけだったことも理解するようになっていきます。

私たちがしていくべきことは、この「自分」の無意味性、非実在性を受け入れていくこと、そして、この時間の中の最後の旅路をそのための「教室」としていくことなのだということです。

そして、その訓練を、コースでは「赦し」と呼んでいるということです。

それこそ、なんというシンプルさでしょう。

ただし、そうなっていくためにはそれ相当の学びと訓練を要するということを覚悟しておく必要があるといえましょう。




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