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夏のホットコーヒー、厚切りトースト

2018年の夏、私はフェスで初めてソロキャンプをした。ソロキャンプはその名の通りひとりでキャンプをすることだが、フェスはそもそも大勢で行ってキャンプをする人が多いので、楽しそうだけど寂しい思いはするだろうなとは思っていた。

寂しい思いをするだけなら良かったが、フェスの当日は朝から大雨。会場は山に囲まれていて、どんどん雨は強くなっていった。その中でびしょびしょに濡れながら小さなテントをひとりで張っていると、どんどん心細くなっていった。張ったばかりのテントにはどんどん水が入ってくるし、トレッキングシューズは雨の中履きづらいからと脱いでビーチサンダルを履き始めたら芝生で滑って何度も転んでしまった。本当につらい気持ちになっていた。

夜になったら小さなテントを少し開けて、小さな焚き火台でお湯をあたためてスープを作って飲んだ。家ではおいしく飲んでいたはずのスープが、なんの味もしなかった。夜もふけてきて近くのテントは盛りあがっているのに、私は何もすることがなくただ横になったけれど眠れず、どんどん悲しい気持ちになっていった。とにかく私はフェスの思い出をつらいものにしたくなかった。

翌朝、大雨が嘘のようにあがって空はよく晴れていた。テントを片付けるのは昼すぎになるので、寝床だけまとめて朝の散歩に出かけた。フェスのガイドマップを見ると、どうやら早朝からやっている飲食テントがあるらしいことがわかった。

とにかく最高の朝ごはんを食べたかった。ガイドマップにのっていたのは、ハンドドリップコーヒーとこんがり焼かれた厚切りトースト。夏とはいえ朝は冷え込むので、そんな朝ごはんがちょうどいい。

その店はキャンプエリアからは離れた場所にぽつんとあった。日中は賑わうエリアだったが、早朝から営業している店はそこしかなかった。そのエリアに足を踏み入れていたのはどうやらまだ私しかおらず、雨に濡れた一面の芝生が陽に照らされて眩しいくらいにキラキラ光っていた。

お店の方から「ちょっと待っていてくださいね」と笑顔で言われてから5分くらいして、深く沁み入るようなコーヒーの香りと、トーストがこんがりと焼ける香ばしい香りがふわりと漂ってきた。それから少し経つと、そのふたつが私に手渡された。

淹れたての香り高いコーヒーをゆっくりと飲んで、贅沢にのせられたバターが切れ込みから浸みたトーストを口に入れた。表面をかじるとさっくり音がして、中は嘘みたいにふんわりとしていた。ふんわりとしたパンの中からじゅわっと溶けたバターが滲み出てきて、口の中に広がった。思わず笑みがこぼれてしまう。キラキラ光る芝生を眺めながら、コーヒーと厚切りトーストの味だけに集中した。

コーヒーを飲んでトーストを食べたことでそれまでのつらさを忘れたかといえば嘘になるが、その朝食を食べているたった一人の時間が、そのフェス中のどの時間よりも充実していたことは確かだった。後にも先にもそのときほど気持ちが充実した朝食の時間を過ごしたことはないかもしれない。

それから昼になり、テントを片付けてからライブを見ながらキンキンに冷えた缶ビールを飲んだ。フェスでビールといえばやはり定番だし、それはそれで本当においしいのだけれど、私にとっての夏の一杯は朝飲んだ淹れたてのホットコーヒーであり続ける気がする。

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