抗がん剤3日目 -かがみの孤城を見た-

今日来てくれる友達が勧めてくれたので珍しくそのまま見てきた。

アマプラで見ることができた。

事前情報は「高山みなみさんが出ている」ということだけ入れておいた。
一応ファンサ?があったかな?
原作でもあるのだろうか?

オーソドックスな、学生特有の虐めというか、そういったいざこざで不登校になった子供がテーマだった。
全体の流れというか、からくりには途中から気付くことができる気がするけど、最後の方の畳み掛けは予想できなかったな。
主人公がいるからミスリードされちゃうね。
原作読破した人とも同じ感想だったけど、少し駆け足だったかな?

思うのは、あんなに女子の友情ってドロドロしているのだろうか…

僕は中学卒業と同時に高専なので、虐めなんていうものとは中学以来無縁になった(同時に、女子も)。

小学生のころは虐められていた。
何をしても、「こんなことしたよ(クスクス)」みたいなのが付きまとう。
彼らは、何が面白かったんだろうな。
頭が痛くて、保健室通いの日々だった。
ただ、先生に恵まれた。
「君たちが何をしているのかわかっているのか!この子がどれだけ傷ついているのか!痛みがわからないのか!!」
と授業中に怒鳴ってくれた。
それ以来は無くなった。

高専に入って虐めがなくなったことから、頭が悪いから他人を虐めているのだと思う。
なぜだか他人を攻撃して排除しようとする。

一方で、他者と自己とを区別するものってなんだろう?
他者の目線なしに、自己をはっきりと自認できるのだろうか?という質問に近い。

どうだろう?

質問を変えて
「家で一人のときと、人がたくさんいる東京駅のコンコースで一人、どちらが孤独か?」
はどうか。

孤独は自分が感じるものなのだから、自己のものだと思うが、明らかに後者のほうが孤独感は強いはずだ。

「いやいや!家で一人のほうが孤独だよ!」
と声を荒げる人は、寂しさと孤独とを勘違いしていると思う。
今ここに独りだけだ、と強く感じるのは、周りに自分の知らない人がたくさんいる時だ。
ただまぁ、別に孤独や寂しいのが悪いという話ではない。
あくまで認識の話。

ここまで考えてみて再掲すると、自己と他者とを区別すること、は簡単なことだろうか?

先程の問から、他者の存在なしに自分について何かを感じることが難しいのかも、いうのが容易にわかる。
だから他者と交流するんだ。
他人も自分の一部だと言えるし、自分だってその他人の一部とも言える。
一番焦点距離の近い他人が自分だろう。

そうして、他者の目を通じて自分を見ることにつながる。
極端な言い方だと、他者の存在によってもたらされるもの、それが自分だとも言えるかもしれない。

まぁ、何もしないのに自分というものが勝手にポコっと芽吹いたりしないよ、という考えである。

頭の良い人は自然とこういう考えができるからか、自己と他者との境界を不自然に作らずステップインできるのではないかと思う。
あるいは、自分の好きなものがあって、それに夢中なのかもしれない。
だから自然と周りに好きな人が集まるのかな?

生理的に無理みたいな人もいるだろうが、それは育ちとか文化の話なのかな?
嫌な人は、どうやっても嫌だよね。

ここまでは仲良くできる、という線切りが大切に思う。

とまぁ脱線したけれど、虐めている本人は、虐めている自覚なんてないし、なぜか、ここまでは仲良くできるみたいな線切りもできない人だ。

そのくせ白黒はっきりつけたがる。

それは、自分だけしか見えていないからだと思う。
これはつまり、他人が見えていない。
ということは、自分すら実は見失っているのかもしれない。
他人は馬鹿にするくせにな。

といったことを考え直したりした。

今日は、親戚と友達、そして兄が来てくれた。

副作用で食欲が落ちているというか、胃袋の容量があまりに狭くなったように感じる。
細かく分けて食べるしかないな。
あと食べられるものも少しワガママが出てきた。

「生きることは、食うことだ」
というスネークの言葉を胸に食べていきたい。
まずは、食べられるものから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?