モーグル競技15年間の記録

こんにちは。
岩本憧子(あこ)と申します。

note始めてみました。
ゆるーく色々なことを更新していこうと思っています。

まずは自己紹介と15年間のスキー競技生活を簡単に振り返ります。

ちょっと長いけど良かったら読んでください。

生まれは大阪府和泉市。
そして小学4年生の頃に家族で長野県白馬村に引っ越してきました。

大阪に住んでいた頃から家族で休みの日やお正月、ゴールデンウィークはスキーに出かけていたのでスキーはそれなりに滑っていました。

しかしスキー選手になるなんて誰が思っていたか。
少なくとも私は思っていませんでした。

将来の夢はケーキ屋さんとか言ってたんじゃないでしょうか?
正直ぜんぜん覚えてないので適当ですが。

でも、気付いたらモーグル競技と出会い選手になっていました。

小学4年生か5年生の頃に長野県スキー連盟のモーグル合宿に参加させてもらい、そこには上村愛子さんなど世界で活躍している選手たちが。

そんな良い環境で練習させてもらっていた事もあり中学生の頃には漠然とモーグルでオリンピックに出場したいと思っていました。

少し注目してもらったのは、高校1年生のとき。

初めての全日本選手権。

デュアルモーグルであれやこれやという間に準優勝しました。
(めっちゃ運が良かったんです。)

そしてつぎの年の全日本選手権でモーグル初優勝。
(これもめっちゃ運が良かった。)

上村愛子2世なんて言ってもらえてちょっと舞い上がったのは内緒です。

白馬高校を卒業して中京大学に進学。

入学した頃から漠然と卒業してもモーグルは続けたいなぁと考えていました。

しかしなかなかワールドカップの出場権利が取れない。

大学2年生の時、今年ワールドカップ出れなかったら卒業後の進路を考え直そうと思いシーズンインしました。

そしてやっとの思いでその年にワールドカップ猪苗代大会に初出場。

切羽詰まった方が成績でるのか?なーんて思いながら、その後のワールドカップも参戦させてもらえることに。

それがソチオリンピックの前の年。
2013年です。

それまで全く見えていなかったソチオリンピックが見えてきました。

しかし2014年オリンピックシーズン、本格的に参戦し始めたワールドカップでオリンピック直前の試合の雰囲気や海外のコースの形状に心身ともにけちょんぱにされ全く結果が出せません。

オリンピックのモーグル女子の出場枠は4枠。
その中で決まっていたのは、上村愛子さん、伊藤みきさん、村田愛里咲ちゃんの3人。
残るは1枠で、ワールドカップに参戦していた選手は出場が決まっていた3人と星野純子ちゃんと私の5人。

近そうで遠い。
全く滑れない。結果が出せない。結果を出せる気もしない。でもオリンピック出たい。
そんな気持ちが頭をグルグル巡りながらワールドカップを転戦していた記憶があります。
自分自身がいちばんオリンピック出場までの大きな壁を感じていました。

結果、私は全く結果を出せず、
純子ちゃんがオリンピック直前の(オリンピック選考最後の)ワールドカップで表彰台に乗り、オリンピックへのチケットを手にしました。

この時、私は凄く悔しい気持ちと共に、
この戦いが一旦終わるのかと少しホッとした気持ちになったのを覚えています。

それでも4年後の平昌オリンピックへと気持ちを切り替え、
ソチオリンピック直後に行われた全日本選手権。
上村愛子さんの引退試合ということでマスコミも沢山。
さらに地元白馬村での開催。
家族も観に来てくれているなか、デュアルモーグルで優勝する事ができました。
この優勝は本当に嬉しくて平昌オリンピックに向けての大きな励みになったのを覚えています。

そして、大学4年生の時にアスナビというJOCの就職支援制度で(株)ヤマノホールディングスにアスリート採用してもらいました。

社会人になりスキーのためだけに使える時間が増え、沢山の人が協力してくれました。

環境も整い万全の状態で臨んだシーズンも大した成績は出せず。

年々、技術力があがっている自信はあるのに試合では良い滑りが出来ない。
結果が出ない。

会社に申し訳ない。サポートしてくれているスポンサーさん達に申し訳ない。応援してくれているファンに申し訳ない。このままじゃ平昌オリンピックに出れない。
そんな気持ちがぐるぐる。

それでもたまに試合で良い滑りが出来ると嬉しい。その滑りを良い評価してくれるともっと嬉しい。
そんな気持ちを励みに一生懸命取り組んできました。
いや、一生懸命取り組んできたつもりでした。

私にいちばん必要だったのはメンタルトレーニング。この事はつい最近、元アルペンスキーヤーの清澤恵美子さんにインタビュー取材をさせてもらった時にひしひしと感じました。

この事はまた改めて別の記事で書きたいなと思っています。

ついに平昌オリンピックの2年前にナショナルチームを落ちてしまいました。

絶望的!!

でもここで諦められないしまだチャンスはあるはず。
どうやったらナショナルチーム戻れる?どうやったら平昌オリンピックに出れる?
コーチと打ち合わせと修正を重ね最終的にひとつの目標を立てました。

全日本選手権モーグル、デュアルモーグル2連勝。

(実はモーグルのナショナルチームの選考基準は発表されるのが遅く、シーズンが終わってから発表されたりすることもあるためこれまでの傾向や噂話を参考に出る大会や目標などを決めていました。笑)

この目標は、平昌オリンピックの前のシーズンの目標で、このタイミングでナショナルチームに戻れなければ平昌オリンピック出場の可能性はほぼ0%というシーズンでした。

これまで以上に集中して取り組み、むかえた全日本選手権。

調子も良く、気持ちも前向き。2連勝できると心の底から思い臨みました。

しかし結果は、、、

1日目のデュアルモーグルの一回戦目であっさり敗退。

平昌オリンピックへの道は途絶えました。
信じられなくて状況を理解するのに少し時間がかかりました。

ここまで人生に絶望することはもう一生ないんじゃないかなと思うほど、オリンピックは私の人生の中心でした。

目標を失い、廃人になりました。
正直言うとなんにもしない、なんにも出来ない時間が過ぎていきました。

そんな時所属していた(株)ヤマノホールディングスのスポーツ事業部が、RIZAP(株)に吸収され、私も一緒にRIZAPの仲間入りに。

最初の1年は(株)ヤマノホールディングスと同じ契約でスキーをやらせてもらえる事になりました。

このままスキーを辞めたくない。でもなんのやる気も出ない。会社に申し訳ない。でもどうせ私なんてって思いを抱きながらながら日々を過ごし、ひどい時には布団から出れない。メールも打てない。ひたすら漫画や映画で現実逃避。
一緒に住んでいた妹に、「最近布団の中にいるあこぶしか見てへんねんけど」と言われる始末。
それでも家に会話ができる人がいてくれたのは精神的にとても助かったし、彼氏が外に連れ出してくれたのでなんとか引きこもりにはならずにすんでいました。

そんな状態で半年が過ぎて平昌オリンピックが開催されました。

家のTVで観戦する平昌オリンピック。
気持ちの整理はしてきたつもりだけど、やっぱり悔しいこの舞台に立ちたかった。そんな気持ちが湧き出てきました。

そんな中での原大智の銅メダル。
めっちゃ興奮したし嬉しかったし純粋にやっぱりオリンピックは素晴らしい場所だと再認識しました。

この気持ちはスキーを引退したあとセカンドキャリアを考える上でひとつの大きな指標になります。
(セカンドキャリアのこともまた別の記事で書きたいと思っています。)

そんなこんなで1年間引退しようかなぁ詐欺をした結果、
やっぱりこんな中途半端で終わりたくない!と思い、もう一年続けることにします。
(この引退詐欺に見事に引っかかった妹はわざわざ北海道まで全日本選手権の応援にきてくれました。ありがとう。笑)

そこからはトレーニングや遠征、試合においても大きな視野で自分を見ることができました。
これからの人生のことも考え2018年10月にこのシーズンでの引退を発表しました。

ラストシーズン色々なジャンルのスキーに挑戦させてもらい、ほぼ毎日スキーを履き、(これまでは3日練習して1日オフというルーティンでした)
相乗効果もあってかモーグルも楽しくて、スキーが大好きだと改めて実感しました。

そんな中での引退試合、ファンの方々や会社の人や友達、家族が応援に駆けつけてくれとても心強い中で満足のいく2日間でした。

沢山の人にお疲れ様と言ってもらい、目標だったオリンピックには行けなかったけど心の底からやりきったなと思う事ができました。

そんなこんなで今年の春(2019年3月)、15年間続けてきたモーグル競技を引退しました。

セカンドキャリアとされるこれからの事はまた今度書くので読んでくれたら嬉しいです。

長々と読んでくれてありがとうございます。


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