見出し画像

誰よりもリアリストなのに、いや だからこそ「綺麗事」を叫べる男 五代雄介の凄さ

『仮面ライダークウガ』の主人公、五代雄介(演:オダギリジョー)が好きだ。

彼はときに劇中人物から「綺麗事ばっかり」と評されながらも、実は誰よりもリアリズムに満ちた、ある種ドライな善 を行っている。

自衛のために振るう暴力でさえも憂う心の持ち主ながら、〈自らが拳を振るわなければ目の前で人が死ぬ〉という場面では即座に拳を振るえる。
ただし、大粒の涙を流しながら。


劇中で「五代さんの言っていることは綺麗事ばっかり」と反発された時、彼は以下のように返した。

でも、だからこそ現実にしたいじゃない。本当は綺麗事がいいんだもん。これ(拳)でしかやり取りできないなんて、悲しすぎるから

非現実的な綺麗事に立脚しながら、ギリギリまで綺麗事を現実に近づけていく。そして現実と綺麗事が衝突した時には、その折り合いをつけるために自らの身を捧げてしまう。

グロンギから人々を守るために暴力を振るわざるを得ない という現実。
たとえ自衛のためでも本当は暴力を振るいたくない という綺麗事。
五代雄介はこの板挟みに折り合いをつけるため、〈グロンギを倒すことができる力であり、かつ暴力に涙する自らの素顔を隠すことができる仮面〉であるクウガへと変身する。自身が「戦うためだけの生物兵器」と化すリスクを背負いながら。

綺麗事と現実とのあいだに絶対的な距離があることを自覚しながら、自らの身を粉にしてまでその距離を縮めようとする。


「人の気持ちになるなんて誰にもできませんよ。思いやることなら、なんとかできますけどね」という台詞も象徴的だ。
決して「俺は人の気持ちがわかる」などと驕らない。かといって、諦めもしない。自分にできるギリギリまで寄り添い続ける。

「他人との間には絶対の距離がある」と自覚するからこそ、その距離を最大限縮めることができる。
逆説的だが、非常に実践的なアプローチだと思う。


五代雄介は全能の神ではない。暴力には暴力で抵抗せざるを得ないし、人の気持ちを完全に理解して救済することもできない。

それでも、暴力を憎み続け、人に寄り添い続ける。
綺麗事が実現不可能だと悟ることは、綺麗事を諦める理由にはならないから。 綺麗事は、「現実になる/ならない」という結果ではなく、「現実にしていく」という過程にこそ意味があると思う。

五代雄介は、綺麗事が通用しない現実を誰よりも知っているリアリストであり、だからこそ綺麗事を叫ぶ意味があると信じるロマンチストでもある と思う。

「綺麗事と現実の差を縮めるための過程として、実践的なアクションを試み続けること」自体に意義を見出す。これは最も現実に即したヒーロー像の1つだと思う。

だから、五代雄介が大好きだ。


この記事が参加している募集

私の推しキャラ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?