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あくあゆの浄土真宗聞法体験記 (14)

今までを振り返って

私が浄土真宗の教えを聞くようになってから(S会時代やブランクも含めて)37年もの歳月が過ぎ去っています。改めて時の流れのはやさを感じています。

S会で1年、ブランクが25年(!)、再開してからもしばらくはS会の書籍頼りでこれが8年、そこから抜け出して龍雲先生からお話を聞くようになったのが2年前…壮大な回り道をしたなぁと思いますが、きっとこの回り道がなければ聞けない私だったのだと思います。

でも、世間一般の感覚で考えれば、仏法を聞くということがまずありえないことですよね。

私が聞法している浄土真宗とは一体どんな教えなのか?おおまかになってしまいますが、書いてみたいと思います。

悪業を止められず、そのせいで生死を繰り返し苦しみの世界から抜け出せない私たち衆生を哀れんだ法蔵菩薩さまが立ち上がり、そんな救う縁のない衆生を救うための方法を五劫という考えられないくらい長い間考えられ、ついにその方法を考えついた。それは南無阿弥陀仏の六字に衆生を救う功徳を詰め込んで私達に届けて称えさせるという方法。
南無阿弥陀仏を完成させるため、想像を絶するような長い間、想像を絶するようなつらいご修行をされ、ついに南無阿弥陀仏を完成させた法蔵菩薩さまは阿弥陀仏と成られた。
南無阿弥陀仏は今から十劫も前に完成していて私達に届けられている。南無阿弥陀仏を称える者は極楽浄土に生まれて仏に成る。そして俗世に戻り衆生済度をする。

どうですか?実は正直に言うと、私にはいまだにおとぎ話にしか思えません。
まず時間のスケールが大きすぎて訳が分かりません。五劫考えられた(五劫思惟)の劫という単位ですが、ひとつの宇宙ができて消滅するまでの長さとか、一辺が四十里もある大石を天人が百年に一度降りてきて薄い衣でひと撫でし、その大石がすりきれて無くなるまでの期間(落語「寿限無」の五劫の擦り切れはここからきています)と言われています。

宇宙が五回生まれて消えるとか四十里の大石が五個も擦り切れて無くなるとかいくらなんでも盛りすぎでは?と思ってしまいます。

更にご修行の方は兆載永劫という期間ですから、五劫どころではありませんね。もう永遠と言ってもいいくらい長い期間です。

ときおり「私は何でこんなスケールがぶっ飛んだおとぎ話を聞法しているんだ?」と不思議に思うことがあります。私の本心ではまるっきり信じられるお話ではないからです。

この壮大なスケールのおとぎ話を『仏願の生起本末』と言います。そして南無阿弥陀仏を称える衆生は仏願の生起本末を疑いなく聞けるようになるのです。

と言っても、私達が一生懸命信じようとか疑いなく聞こうとするのではありません。どうやっても疑いが拭いきれない私達のために阿弥陀さまがご信心をプレゼントしてくださるのです。だから、私がまるっきり信じることができなくても問題ないんですね。

最初の頃、仏願の生起本末や因果の道理、六道輪廻という浄土真宗や仏教の基本的なことを私はそれなりに信じているつもりでした。南無阿弥陀仏も自分の意思で称えていると思っていました。しかし聞法を重ねていけばいくほど、私は何も信じていないことを知らされていきました。

自分の意思で聞法していたと思っていたのに、本当は自分は仏法をまるで信じていない。なのになぜ自分は聞法したり南無阿弥陀仏を称えたりしているのか、だんだん不思議に思えてきました。

これは阿弥陀さまのはたらきで聞かせて頂き、称えさせられているからです。私が自分で聞いたり称えたりする殊勝な心など全く持ち合わせていないこともだんだん気付かせて頂きました。

自力をこれっぽっちの足しにも出来ない私だから、阿弥陀さまが全て用意して下さった。この阿弥陀さまのお力を他力と言うんですね。だから仏願の生起本末をおとぎ話としか思えない、仏法をこれっぽちも受け入れられない私でも、聞法したりお念仏を称えたりできるのです。

浄土真宗ではご信心は阿弥陀仏から頂くもの、自力の信心は役に立たないと教えます。自分がいくら「阿弥陀さまは有難い」「私が死んだら極楽浄土に連れて行ってくれる」と信じたところで、いざ今夜死ななくてはならないとなったら私の作り上げた信心などは、あっさりと吹き飛んでしまうからです。

自分が一生懸命作り上げ固めた信心が、臨終の際に吹き飛んでしまうなんてとても恐ろしいことだと思いませんか?

だから信じる心も阿弥陀さまがブレゼントしてくださるのです。これを絶対崩れることがない信心だから『金剛の信心』と言います。金剛(ダイヤモンド)のように硬い信心です。

振り返りを書いていたはずが、いつの間にか浄土真宗の説明がメインになってしまいましたね。

世間一般で浄土真宗は「鎌倉時代に、南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽浄土に生まれるっていう仏教の宗派が出来たって学校の授業で習ったけど、そんなの苦しい人々の気休めだよな」程度の認識だと思います。私もそうでした。

そんな私が最初は間違った教えながらも浄土真宗の教えに出会い、途中逃げ出しながらもまた聞き始め、そして正確な教えを説いてくださる方に出会い、素晴らしい仲間と聞法をしているのはどんなご縁なのでしょうか!

そして心の奥底ではまるっきり信じても求めようとも思っていない私がお念仏を称え聞法してしている不思議。この私一人を救いたいという阿弥陀さまのはたらきなのだと思わずにはいられません。

改めて自分に問うてみました。
「お前は仏願の生起本末を聞いて疑いがなくなったのか?」
私はこう答えます。
「私はまだ疑いなく聞けていないようです」
以前ならばあせってどうにかしようと思ったでしょう。だけどどうにかするのは阿弥陀さまのお仕事です。ここまで全て阿弥陀さまにお膳立てして頂きました。私ができること、それは私に届けて頂いた南無阿弥陀仏を称え聞くこと、ただそれだけです。私は既に阿弥陀さまの腕に抱かれているのですから、じたばたしても仕方ありません。

最後に歎異抄の後序に書かれている親鸞聖人のお言葉を引用させて頂いて締めくくりたいと思います。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(-人-)

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ひとまず連載はここまでとなります。最後までお付き合い下さって有難うございます!

このあとはブログ「あくあゆの浄土真宗聞法ライフ」を不定期で更新していきたいと思いますので、応援よろしくおねがいします。

執筆にあたり以下のサイトを参考にさせて頂きました。(敬称略)

ゼロからわかる浄土真宗 久保龍雲
死ぬのが怖い人へ 久保龍雲
Ryuun Kubo フェイスブック
久保龍雲@浄土真宗の聞法道場 ツイッター
久保光雲 KounKubo 浄土真宗の法話 ユーチューブ
久保光雲(お坊さんYouTuber) note
久保光雲 フェイスブック
久保光雲@浄土真宗YouTuber  ツイッター

タイトルヘッダーは久保光雲先生のイラストを加工して使用させて頂きました。
また、公開にあたり原稿のチェックを久保龍雲先生と久保光雲先生にお願いしました。お忙しい中本当に有難うございました。

合掌






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