自分は今、サッカーがしたい。

こんにちは。

今回はシンガポールから帰国後して次のチームを探している過程とその心情についての話をしようと思います。

シーズン終了(2018/10/6)

10月6日という異例の早さでシンガポールでのシーズンが終了しました。当初の予定では11月頭ぐらいに終わる予定だったのですが、11月からSUZUKI CUPに向けたシンガポール代表の活動が始まるということで急遽リーグ戦・カップ戦共にスケジュールが前倒しに。最後の方は中2日の5連戦などあって、こんなこと日本じゃ有り得ないなと思いながら戦いました。代表活動があるとわかっているなら、それに合わせた日程を最初から組むべき。シンガポールサッカー協会のスゴさを感じながらシーズンを終えました。

チーム探し

僕は今年、大卒2年目の年で2019年4月に24歳になります。シンガポールサッカー協会がアルビレックス新潟シンガポールに対して定めた「23歳までしか所属できない」というルールがあったため、次のチーム探しを始めました。次のチーム探しをするにあたり、自分のプレー映像は必要だと思っていたのでシーズン中から試合の翌日には自分のプレーを振り返りも兼ねて、自分の良かったプレーと悪かったプレーを抽出してシーズン終了後には出来上がっているようにしていました。そのプレー映像がこちらになります。

また1年間だけしか所属できないとわかっていたため、チームの結果にプラスして次のステージに進めるだけの力をつけることに重きを置いてプレーしていました。なので、チームの勝利+個人の結果にこだわりました。これはサッカー選手としては当たり前のことで、大学の時から自分の中で意識してプレーしていたつもりでしたが、プロになって来年自分がプレーする場所がないかもしれないという状況の中でプレーしてみて今までの意識じゃ甘かったんだなと痛感しました。それがプロとアマの違いなのかなと。

(抜粋)
大卒選手は活躍に関係なく1年しか在籍できない状況となった。つまり、プロ生活を続けるためには、今季のプレーが他チームに評価されなければならない。だから、後半にミドルシュートを連発した浅岡は、「決め切れなかったのが悔しい。1年しかいられないし、数字を残さないといけないリーグ。優勝は決まったけど、自分を高めることにフォーカスしないといけない。今を生きる、じゃないけど、一日一日が勝負」と悔しがった。中盤で捌いたパスは悪くなかったが、それ以上に数字が必要なのだ。チームのパーツとして機能するだけでなく、個人のアピールもしなければいけない。

なので、チームとしてはシーズンは終わりましたが、僕にとってはここからが本当の闘いの始まりでした。

帰国(本当の闘いの始まり)

帰国後すぐにJ2のMとJ3のZの2チームにTM&TR参加しました。その過程を書いていきたいと思います。

J2のM】
強化部長と面談
「浅岡君のことは大学時代からみていたよ。関東リーグとか天皇杯とか。浅岡君は一人でというよりかは周りと連携をとって周りを上手く活かした上で自分も活きるっていう選手だよね。だから、技術や判断もそうだけど、周りと連携できてるか、コミュニケーション取れてるかっていう部分もみさせてもらいたい。是非契約を勝ち取れるように頑張って。」と練習参加前に強化部長からそう言われたため、それを意識してアピールしようと思った。

10月16日〜17日 1回目の参加 TR
4チームに別れて8vs8の総当たりのゲーム。僕が入ったチームはメンバー外組で構成されたチーム。強化部長との面談での影響もあるが、サッカーをやる上では自分のプレーを出すにも相手に勝つためにもコミュニケーションは必要不可欠なため積極的に選手たちとコミュニケーションをとった。ただ、黙々と自分のプレーに専念するのもいいかもしれないが、サッカーは一人でやるものじゃないから。結果、味方とコミュニケーションをたくさんとったことで自分の持ち味も出せたし、全チームに勝って優勝もした。練習参加後にはその部分を評価してもらい、次は試合に呼んでくれることに。

10月29日 2回目の参加 vs上武大学
後半開始から1-0の状況でダブルボランチの一角として45分間出場。前回の練習参加でほとんどの選手とコミュニケーション取れていたので、試合にもすんなり入れて自分の持ち味出せた。結果、ミドルシュートで1ゴールもし、試合にも3-0で勝った。試合後の評価も良かったが、また返事をするということに。

12月1日 3回目の参加 vs筑波大学
次に呼ばれたのは1か月後の筑波大学とのTM。恐らくこれが最後の見極めになるだろう。僕は練習参加がないときは筑波大学のTOPチームに混ぜてもらって練習していた。そのため日頃から一緒に練習していた後輩たちと試合をすることに。特徴はわかっているものの、逆に言えば僕の特徴も後輩たちはわかっているので非常にやりづらかった。けど、30×3本のうちの2本にボランチと右SBで出場して、もうチームにも溶け込めていたし、自分の持ち味もある程度出せて、試合にも3−0で勝ち、感触も悪くなかった。試合後の評価も良くて強化部長からはほぼ獲りたいという内容のことを言われた。だが、まだ今いる選手達の契約が決まってないことや他クラブの選手の移籍の兼ね合いもみてまた返事をするということに。その場で契約とならなかったのは完全なる自分の能力不足と痛感。

12月20日 こちらから連絡
一向に返事がこなかったため、こちらから連絡をした。すると「今浅岡君含めて3人ほど候補が上がっていて浅岡君の名前は残っている。だからもう少し待ってほしい」という返事が。3人のうちの1人になれるか。

12月27日 不合格の連絡
夕方ごろだったか。不合格の連絡が来た。「他のチームから獲得出来ないと思っていた選手が獲得できたから、今回はごめんなさい」という内容だった。その選手が獲得できていなかったら僕は契約を勝ち取れたのか。いや、他選手と関係なく周りに有無を言わさない能力が僕になかった時点で不合格だったということだ。正直、評価も良かったし獲りたいという内容のことも言われていたので契約してもらえると思っていた。しかし、やっぱりプロの世界はそんなに甘くない。自分の能力不足を本当に悔やんだ。これが12月27日のことだったからまた年明けからチーム探しをすることに。
【J3のZ】
11月24日 1回目の参加 vs湘南ベルマーレ
J2のMに練習参加をしながら、J3のZにも参加していた。今回の場合はいきなりのTMだったため、参加前にDAZNでJ3のZの選手達の特徴を見ておこうと思ったが、そのTMのメンバーはベンチ組のメンバーだったためプレーが見れなかった。なので味方の選手の特徴も掴めていない状況だった。ただ、幸いに相手は湘南ベルマーレでDAZNでどんなチームかもどんな特徴を持っている選手がいるのかもチェックできていたので、それを持って試合に入れたのは運が味方をしてくれたか。後半45分、0-2の状況からダブルボランチの一角として出場。いきなりの試合でコミュニケーションをとっている時間もなかったため、この試合はどんどんボールに絡んで自分がボールを触っているところを見てもらおうと意識してプレーした。また45分しかないし、緊張して消極的になるよりは周りになんと言われてもいいと思いながらとにかく楽しんでプレーすることを心がけた。チームとしての結果は0−3で負けたが個人としては積極的にボールに絡んで背後にもボールを配給して、ミドルシュートも後半だけだったが3本は打った。内2本は枠内でCKを獲得。ただ、やっぱりプロの世界である以上ゴールしなければ仕事をしたとは言えない。このパフォーマンスをどう評価されるか。また返事をすると言われた。

12月10日〜12日 2回目の参加 TR
1週間後。連絡が来て、今度は3日間の練習に参加することに。練習といっても20分×3本の11vs11のゲームを最初の2日間やって、最終日は8vs8のゲームを10分×3本やった。というのもJ3のシーズンは既に終わっており、僕の他にも練習生が8人ほど来ていたため、練習参加というよりはトライアウトのような感じだった。他にも練習生が多くいたため、「その選手たちよりもいいパフォーマンスを。」という意識でやろうと思った。けど、それでは自分のすべきこと、サッカーをしていることを忘れて、結局いいパフォーマンスには繋がらないと思ったので、今まで通り、周りとコミュニケーションをとって、周りを活かして、自分を活かすというプレーを心がけて自分の持ち味を出すようにした。実際そっち方がたくさんパスも来たし、そのパスも欲しいタイミングでくるし、守備の時も声をかけたらその通りに動いてくれるし、要は「信頼」が生まれたのだ。サッカーは「信頼」のスポーツだと何度も練習参加をする上で改めて感じた。また連絡をすると言われた。

12月19日 不合格の連絡
1週間後。電話がきた。「今回は残念だけど、契約までには至らないという結論になりました」という返事だった。自分的には悪くないパフォーマンスだった。けど、悪くない止まりのパフォーマンスだった。めちゃめちゃいいパフォーマンスではなかった。それを出せなかった自分の能力不足でまた契約を勝ち取れなかった。
【アルビレックス新潟Sからオーバーエージ枠のオファー】
12月下旬にアルビレックス新潟シンガポールからオーバーエージ枠のオファーを頂いていた。その時はJ3のZの結果は出ていたが、まだJ2のMからは返事待ちという状況だった。悩んだ。オーバーエージという大事な1枠をまだプロで1年しかキャリアを積んでいない23歳の僕にくれたのだから。これもまた違った経験ができると思った。けど、今はまだ僕はまとめる立場の環境でサッカーをするよりも、よりレベルの高い日本のチームの中に飛び込んで上に食らいついてという環境でサッカーをしたいという思いが強かったので、そのことを伝えさせてもらった。

〈2019年〉

1月 再びチーム探し
年内でチームを決められなかったため再びチーム探しから。色々な人に協力をしてもらった。筑波の先輩や同期が紹介してくれた代理人、お世話になったコーチやその知り合いの方など。本当に多くの人に協力してもらった。本当に感謝しかない。おかげで、多くのJクラブに当たれることができた。だが、チームの編成はもうほぼ年末に終っているという返事のクラブばかり。しかし、そんな中でもJ3のFというクラブに参加することができた。

16日〜19日 J3のF vs湘南ベルマーレのTM参加
これがもうラストチャンスかもしれない。そんなつもりで臨んだ。今までもそのつもりで臨んでいたが、それ以上に気持ちが入っていた。この時期であると、まだチームは立ち上がったばかりで監督のやりたいことを浸透させようという時期。そのため、自分の持ち味も出しつつ、監督がチームに対して要求していることを積極的にトライした。監督の意図をくみ取って監督にこの選手ほしいと思わせなければならない。練習も湘南との試合もその意識でプレーした。またも湘南であったが、今回は新チームでガラッと選手が入れ替わり、誰が出てくるかもわからない状況だったため、試合ですぐに察知して対応するしかなかったが、僕が出たときの湘南のメンバーは昨シーズンにもいた選手が多かったため、それほど焦ることはなかった。結果、自分のパフォーマンスもよかった。やれることはやった。出し切った。チームも湘南相手に1-0で勝った。試合後、監督に評価を聞きにいった。「自分のプレーを出せていたし、こちらの意図をくみ取ってそれにチャレンジしていたのが見えた。プレーを見た上では獲りたいと思ってる。ただ他の選手とのポジションの兼ね合いも考えてもう少し話あわせてほしい」という評価だった。その場でオッケーをもらうことができなかった。だが、もう終わったこと。返事を待つしかない。

23日 不合格の連絡
連絡がきた。「色々話あった結果、申し訳ないけど今回は見送るという形に。大貴のプレーはよかった。全然問題なかった。ただ大貴は中盤の選手でうちは中盤の選手をたくさんもう獲ってしまったからタイミング的に悪かった。けど、大貴のことはこれからも追っていきたいから頑張ってほしい。」という返事だった。3回目の不合格の連絡だった。

3つのクラブから契約をもらえなかったのは他の選手に関係なく、予算にも関係なく、時期的にも関係なくチームに自分をほしいと思わせるだけの能力がなかったから。どの練習参加でも自分の全ては出せていた。けれど、ダメだったのは有無を言わさない圧倒的な能力がなかったから。自分のレベルがまだそこに達していなかったから。ただそれだけのことで、そこから目を背けちゃいけない。

本当の闘いは自分との闘いだった

「これ以上、サッカー選手としては、、、」

チームが決まらないこの期間、そんな言葉が何度も自分の頭の中をよぎりました。選手を辞めて、早く指導者や分析官の道へ進もうか。今、選手を辞めて指導者·分析官の道に進んだ場合の30歳になった時と選手を引退してからその道に進んだ時の30歳だったら、確実に前者のほうが指導者·分析官としての経験値や能力は高いから、長い人生や周りのライバルたちのことを考えたら今、選手辞めてもいいかなって思ったりもしました。けど、毎回そう思う度に自分にこう問いかけてきました。

「自分が今やりたいのは?指導者になりたいのか?分析官になりたいのか?俺、今何がしたいんだ?」

本当に大事なのは今自分がどうしたいか、何したいか。未来のことは未来になってから考えればいい。この色々なチームに練習参加をして、チームが決まらない間の闘いはチームの契約が勝ち取れるか取れないかという周りの選手たちとの闘いでもありましたが、

本当の闘いは自分との闘い

でもあったということ。

確かに今の自分の状況は辛い、苦しい。

こういう状況にいるのは自分のせい。

けど、これも成長の過程のばず。

このままじゃ終われない。

ここから這い上がる。

今の経験があったから、ここまで這い上がれたと言えるように。

どんだけお金がもらえなくてもいい。

有無を言わさない圧倒的な能力を身に付ける。

契約がもらえなかったチームをあの時獲っていればよかったと見返す。

自分のことを応援してくれる人のためにも。

だから、チームが決まってなくても、

自分は今、サッカーがしたい。

これからまた、色々なチームに練習参加をして次はチームを決められたという報告ができればと思います。

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