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十二階のレンガが呼び起こす、100年前の浅草の記憶

ここ数日、浅草界隈の話題といえば、銀座の小学校の制服問題でもなく、北朝鮮応援団の珍妙なお面のことでもなく、「十二階の遺構発見」の話である。
十二階とは、明治時代に浅草の一角に建造された日本初の洋風高層建築物「凌雲閣」のこと。その階層の数から「十二階」と呼ばれた。大川の向こうにそびえ立つ東京スカイツリーや東京タワーのご先祖様というべき存在で、明治大正における帝都のランドマークだった。物好きが集まる浅草にふさわしい建物であり、当時は石川啄木ら浅草大好き著名人たちもちょくちょく訪れたとされる。
しかし、大正12年9月1日に発生した関東大震災により凌雲閣は中腹より少し上の部分から文字通りポッキリ折れ、その後取り壊しの憂き目となった。原因は地震発生時に建物上部に止まっていた本邦初のエレベートル(エレベーターのことを当時こう呼んだ)のゴンドラの重みを建物全体が支えられなかったことによるという。エレベートルが上下する管を中心柱に据えた耐震性に対する認識の甘さが悲劇を呼んだというべきだろう。
その取り壊された跡地に残っていた凌雲閣の土台部分が、たまたまその場所に建てようとしていた住宅工事現場の掘削中に露出したのである。平成も間もなく終わろうというのに、大正ロマンの亡霊さんがこんにちわ、というわけだ。
旧凌雲閣周辺は、震災後から戦争を経ていくうちに大幅な区画整理が行われ、当時の敷地は全く影も形もない状態にある。しかも周囲は昔から怪しい店やら宿屋やらが多かったらしく、土地の所有権などもはっきりしていない点が少なくない。「浅草十二階」という名前くらいは聞いたことがあるという人は少なくないが、具体的に何処と聞かれて正確に答えられる人間は極めて稀な状態なのだ。
で、今回の遺構出土の一見は歴史的発見か!ということになった。現場から歩いて数分の場所に住んでいる筆者もこれはぜひこの目で見ないとと出かけてみた。実際言ってみると、現場は何の変哲もないただの工事現場。面積はさほど広くない。でも、その奥の方に、たしかに焼けた石のように赤いレンガが積み重なった部分が2箇所、はっきり見えた。しかもその手前に目を移すと、凌雲閣の八角形の建物が立ってたことをうかがわせる土台の縁のようなものも確認された。
現場には自分以外にも、噂を聞きつけてやってきた者が数人、遺構を眺めながらスマホで写真を撮っていたりした。さらに、どこかの博物館の学芸員だろうか、初老の女性が凌雲閣の詳細が記載された百科事典のような分厚い本を持って、見物人の疑問に即応できるよう控えていたのには驚いた。
彼女の話によると凌雲閣の土台が露出したのは今回が初めてではないとのこと。昭和56年、今回の現場と細い道を挟んだ現在居酒屋が入っている建物を作る際にも、今回と全く同じようにレンガ造りのあとが出てきたのだ。残念ながら、資料的価値はあってもそのまま遺跡として保存するわけにはいかなかったが、機転を利かせた当時の人々の手により、露出した部分を図面に書き起こされ、凌雲閣のおおよその敷地の大きさがわかったという。
それから40年近くたった今、新発見というほどのことではなかったとはいえ、久しぶりに応じの艶やかさの片鱗を披露した凌雲閣。100年前の記憶を載せたタイムカプセルのように、またも浅草にロマンのタネを振りまいてくれたのである。

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