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「ブリーク(Brig) 叫ぶ女」〈入れて…〉

スイス[34] ありゃ何だったんだ編(1)

   「ブリーク(Brig) 叫ぶ女」〈入れて…〉
 ある年の晩秋にスイスへ一人で旅行に行っていた時のこと。スイスの小都市ブリーク(Brig)のホテルに併設されていたレストランで夕食を食べた時だからブリーク滞在中の最後の夜だったはずだ。
 一年ぶりのスイスで川魚料理を食べたのだが、前年旅行したシュタインアムライン(Stein am Rhein)の時よりはるかに美味しく、またウェイターとの会話も弾んて楽しかった。その夕食を終えて、ホテルのレストランから自分の部屋に戻ろうとした時のことだ。
 レセプション(フロントデスク)の前を通りエレベーターを待っていたら、どこからかドンドンドンと大きな音がした。何事かと思い周囲を見回すと、何だかケバく若いのかそれとも三十歳代後半の年増なのか分からない化粧の濃い欧州系女性が、ホテルの出入口のドアを外側から激しく叩き何か叫んでいる。
 このホテルはセキュリティがしっかりしていて僕は好感を持っていた。各客室は古典的な鍵ではなくカード型ルームキーでロックする方式で、また夜間にはホテルの出入口はオートロックの鍵がかかっていて、宿泊客は自分に貸し出されたルームキーを出入口横のスロットに差し込むことにより解錠し、深夜でも外出先からホテルに戻ることが出来る仕組みになっていた。
 ブリークがそんなに治安が悪い所だとは思えないが、ホテルに宿泊客以外の人間が入る、それも客室に入るのは好ましいことではない。そういう意味でこのホテルはしっかりしていた。
 ところが、だ。その『ケバ女』は
「ここ(ホテルの出入口)を中から開けてくれない?」
と外からホテルの中にいる僕に対してガラス製のドア越しに英語で必死に叫んでいる。
 彼女の英語からは彼女がどこの出身かは判別出来なかったが、僕より流暢な英語だった。しかしその時の僕にはその『ケバ女』が本当にこのホテルの宿泊客かどうかがわからない。それなのに、出入口を開けて良いものかどうか…
 一分程悩んだが、夜遅くにいつまでも女性に叫ばれてもなぁ、と思い出入口を内側から開けることにした。もちろんホテルの従業員がいたらそちらに取り継ぐが生憎レセプションには誰もいない。もっと怪しければ、内線電話でも探してホテルの係に聴いてみるところだが、う~ん…と思いながらも僕は出入口を開けたのだった。
 入って来たケバ女は、英語で
「鍵を忘れたまま外へ出ちゃったのよ、まいっちゃうわ」
とか言ってる。僕が
"Are you a true guest?"
などと彼女に誰何すると
"Huh? Are you the manager of this hotel?"
とそのケバ女にキツい顔で言い返されてしまった。
 キッとイラつき気味の彼女はエレベーターの中に消えていった。彼女は『怪しい』人ではなかったのかも知れない。『妖しい』女性だったかも知れないが。
 ケバ女が夜の蝶でないことを切に願って、次のエレベーターで僕は自分の部屋に戻った。

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